緒永廣康 「ソメチメス」(sometimes)50

30.ただその四十分の為だけに(「告別演奏會顛末記」その後)(12)

 

  「でもほんと、何やる」今度はアグリーが言った。等々力のヒナコの家では、カセッ

トテープ聞き終えても四人の話は全く進んでいなかった。

「とにかく何か面白い事がいいな。あっ、面白いって funny じゃなくて interesting の意

味なんだけど」アグリーの後を引き受けクマが言った。

「面白い事かあ」ヒナコは天井に目をやり独り言のように呟いたが、ムーは黙ったまま

だった。

 彼等は10月末の文化祭で何をするのかを打ち合わせていた筈だった。しかし、取敢

えずギターと歌で音楽をやる事ははっきりしているものの、出演者を決め、劇場も確保

しておきながら、肝心な脚本が無い劇団のような状態だった。過去二年間の文化祭で、

強引にクラスを引っ張てきたクマにしてみれば、そのような有様は受け入れ難い事だっ

た。しかし何故か具体的な方向性を示すような発言は一切せずにいる。それは彼がこの

グループに参加するにあたって、自分に課した歯止めのようなものであり、もしそれが

崩れれば、彼は限りなく専制君主のように振る舞う事となったに違いない。こと音楽に

関しクマは仲間内では絶対的自信を持っており、そこに譲歩という言葉は存在しなかっ

たのである。

「ねえ、どうしたらいいと思う」ヒナコは何も言わないクマにそう聞いた。

「そう言われても、僕だって、ねえ・・・決められた時間に来て、やる事やって帰れば

いいのかと考えていたんだけど。大体、アナタとムーさんは何がやりたかった訳」

クマは出来るだけ相手の立場を尊重するように優しく言った。

「僕は自分の曲をやりたけど」普段から男の子言葉を使うムーが、ようやく重い口を開

いた。

「ああ、それはいいんじゃない」アグリーが頷いて続けた「で、ヒナは」

 「私はねえ・・・色々考えたんだけど、クマさんやアグリーどんの歌を歌おうかなと思

ってるの、いいかな」

「それは別に構わないけど、まあ男言葉の歌詞を女の子が歌ってる曲もあるし、でも僕

らの歌じゃあ、そのままだったらキーが全然合わないんだよね。とは言え、とんでもな

いハイフレットにカポをはめるのもねえ、そうすると音質も変になっちゃうし・・・そ

れこそフェアウェル・コンサートでやった ”そんなあなたが” とか最後に歌った ”でもも

う花はいらない” なんか良かったじゃない、あれの方がよっぽどいいんではないの」ク

マはお世辞ではなく、本当にそう思っていたのでそのままを話したが、それはオリジナ

ル曲をやる事が、かなり危険な賭けだという思いもあったからだった。

 そもそも文化祭で世田谷区民会館に集まる観客は、自ら望んで来ている訳では無く、

その日は他に選択肢の無い中、否応なしに舞台だけを見なければならない。勿論、万人

に受け入れられる事など土台無理であるにしても、せめて「帰れコール」だけは避けた

かった。何といっても彼等四人は、とりたてて校内で有名という訳でもなく、ましてや

グループを結成したばかりである。観客に黙って演奏を聞いてもらう為には、先ずこち

ら側に注意を引かねばならないし、飽きさせてもいけない。そのような状況で誰一人知

らない自作の曲を演奏するリスクは計り知れない。それをクマは危惧していたのだっ

た。

 「ねえ、どう思う」クマは自分が感じている不安を他の三人に順序立てて説明し、意

見を求めた。

「そうだな、客に受けないというのは致命的だね」アグリーはもっともだという顔をする。

「私、そんな事、考えた事もなかった」ヒナコは肩をすくめる。

「僕はよく判らない。けど白クマのおじさんは色んな事考えてるんだね」ムーは相変わ

らず男の子言葉でポツリと言う。

 それぞれが発言したところで、クマは先程の説明とは全く違うことを言い出した。

「恥ずかしい話なんだけど、僕は今まで人から自分の事しか考えていないと言われて来

た。けれども今度は違う。いや、違うようにしたいと思ってる。大したこと無いけど、

このグループの為に持っているもの全てを注ぐつもりでいる。知ってることは何でもオ

ープンにするから、何でも聞いてもらいたい。それで何をやりたいかだけど、出来合い

の曲を漫然と演奏するのはクリエイティブじゃないよね。いくらコピーが上手くたっ

て、コピーはコピーでしかない。それだったら家に帰ってレコード聞いた方がよっぽど

いいよ。せっかくこのグループに参加して、多分これが高校最期のステージになると思

うし、どうせやるからには、僕は自分に悔いが残らないようにしたい。客の反応は確か

に気になるけど、僕らは音楽を生業としている訳じゃない。だから迎合する必要もな

い。思う存分オリジナル曲を無知蒙昧な聴衆に聞かせてやればいいんだ。たとえ僕らの

挑戦が失敗に終ったとしても、その失敗を誇れるようなステージにすればいい。これか

らの僕らの合言葉は唯一つ、今を尊ばなければ一体 ”いつ” という時があるのか。以上、

演説は終わり」

 クマがそのように自分の心の内を見せることは稀だった。「彼らを愛したまえ、た

だ、それを知らさずに愛したまえ」サン・テグジュペリの小説にそんな一節があった。

しかし彼はそれが全く相手に伝わらない事を身をもって体験していた。『思っているだ

けではだめなのだ。たとえそれが自分の信条に反しようと、はっきり相手に話さなけれ

ばいけないのだ』それがナッパというかけがえのない心の拠り所を失って得た唯一の、

そして大切な代償だった。

 何の恥じらいも無く、白々しささえ感じさせるクマのアジテイションが終わると、誰

からともなく拍手が起きた。そしてそれは、クマが荒れ狂う心の痛みと、漸く折り合い

をつけた瞬間でもあった。

            f:id:napdan325:20181026170856j:plain

緒永廣康 「ソメチメス」(sometimes)49

29.ただその四十分の為だけに(「告別演奏會顛末記」その後)(11)

 

 ヒナコは迷っていた。確かに歌を歌うことは子供の頃から好きであったし、また得意

であると自覚もしていた。どんな曲でも二三回聴けば覚えられ、音を外すことも無かっ

た。そして体を声に共鳴させ、より深く響かせると、得も言われぬ恍惚感に浸ることが

出来た。人には内緒にしていたが、それはまるで体の敏感な部分を刺激して得られる快

感にも似ていた。それでもヒナコには迷っている事があった。

 彼女は「コッキーポップ」という深夜に放送されるラジオ番組を、毎晩欠かさず聴い

ていた。そこでは、未だあまり有名ではない音楽を志す若者たちが、作曲や歌唱でリス

ナーからのリクエスト数を獲得することにより、番組制作者であるヤマハポプコン

そして世界歌謡祭出場を目指すことが競われていた。彼等の最終目標は勿論グランプリ

を受賞する事であり、前回の受賞者は大ヒットになった「あなた」を歌った小坂明子

った。

 ヒナコはその歌をラジオで紹介された時からいい曲だと思い、何度も声に出して歌っ

ていた。そして別のクラスであるにも関わらず、図々しく出演することになった2年4

組フェアウェル・コンサートでもそれを歌おうと考えたが、相棒のムーからナッパがそ

の曲を候補にしていると聞き、一応立場を考え遠慮したのであった。勿論、彼女は他の

誰よりも上手く歌う自信はあったが。

 そしてそのムーは、ヒナコ持ち前の全方位外交ならではの情報収集力から、ようやく

探し当てた相棒だった。歌に比べ伴奏のギターがあまり上手ではないヒナコにとって、

ムーの演奏力は欠かせないものであり、ムーにとってもヒナコは本気で音楽を語り合え

る貴重な同志となっていたのだった。

 彼女達二人は、百名以上の犠牲者を出した熊本大洋デパートの火災からまだ日も浅い

1973年12月にコンビを結成、それ以降毎週土曜日、互いの家を行き来して練習を

続けていた。そこで演奏されていたのは、コッキーポップで聞いた「そんなあなたが」

浅田美代子の「赤い風船」、そしてまたムーが作ったオリジナル曲で、当面の目標は

当初クマ達からムーだけに声がかかっていた2年4組フェアウェル・コンサートに二人

で出演することだった。

 それは、このコンビとして初めて人前で歌うチャンスであり、またコンサートの模様

は録音されるという非常に魅力的な情報も流れていた。二人は相応の準備をしてこれに

臨み満足する結果を得た。それはクマやアグリーをして「コンサートの主役を乗っ取ら

れた」と言わしめた程の出来栄えであった。

 しかし、ヒナコにとってこのコンサートでの一番の収穫は、初めてクマとアグリーを

知ったことだった。彼等二人は今まで聞いた事のないアコースティックギターの演奏

を、これ見よがしにひけらかし、アグリーがストロークで刻むリズムに、クマがつま弾

くリードのフレーズが、目を見張るように格好良く感じられた。また、恐らく通常のチ

ューニングではない神秘的なサウンドにも心惹かれた。それは勿論彼女があまり洋楽に

興味が無かったせいでもあるが、これまで上手いと思っていたムーのギターも色あせて

見える程強く印象付けたことだけは確かだった。

 ところでヒナコは少し前から高校生活の記念になるような事がしたいと考えていた。

それは具体的に何をという訳ではないが、取敢えずは音楽絡みの事になるであろう事は

予測がついた。

そんなある日、ヒナコは一二年でクラスメイトだったトクコと廊下で立ち話をした。ト

クコは一年生の時から男子同級生二人とグループを組みピーター、ポール&マリーのコ

ピーをして歌を歌っていた。そして彼女達は毎年文化祭になると初日だけ行われる世田

谷区民会館での催しに出演していたのだった。その事について聞くと今年も出るつもり

だと言う。

その時はそのままそこで話は終わったが、後になってヒナコはその言葉に自分もそのス

テージに立つことを思いついた。もともと彼女はプロの歌手になるなどという考えは毛

頭なく、高校卒業後どこか短大へ行き、そのうち結婚して子供を儲け平凡に暮らしてゆ

くという、ごくありふれた幸せを望んでいた。そんな彼女にとって世田谷区民会館のス

テージは格好の機会であり、思い出作りには打って付けの場所でもあった。

 彼女は早速相棒のムーに相談した。ところが以外な事にその反応はあまり芳しくなか

った。反対こそしないものの、ムーは自分の技量を冷静に判断できる人間で、強力な助

っ人が必要との意見を述べた。唯、もうあまり時間は残っていない。ヒナコがクマとア

グリーの演奏力を思い出したのはある意味当然と言えば当然であったのだ。

 そして受験勉強に没頭していたクマも、なんとか参加を了承し胸を撫で降ろしたのも

束の間、ヒナコは大きな問題がある事に気づいた。高校最期の文化祭、しかも世田谷区

民会館のステージで一体何を歌えばいいのか。彼女の迷いはその一点に絞られていた。

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緒永廣康 「ソメチメス」(sometimes)48

28.ただその四十分の為だけに(「告別演奏會顛末記」その後)(10)

 

 その日、等々力にあるヒナコの家にムー、アグリーそしてクマの四人が集まり、記念

すべき第一回目のミーティングが開かれた。あの2年4組フェアウェル・コンサートか

ら二か月余り、ここにヒナコとムーの歌唱力とクマとアグリーの演奏力を結集した、都

立深沢高等学校音楽史上、かって類を見ない超弩級のスーパーグループが誰にも知られ

ること無く、ついに誕生したのだった。もし機関紙ダンディーの発行が未だ続いていた

ならば、恐らく一面三段抜きでそう伝えたに違いない。

 三々五々四人が揃うと、「何か言ってよ」そうアグリーに促されたヒナコは立ち上が

り、右手でマイクを持つ仕草をした。

「えへん、えー、私達は今日、新しいグループを結成することになりました。つきまし

ては先ず各人自己紹介をお願いします」 勿論、今更自己紹介をする必要など無いが、

「ヒューヒュー」とムーが奇声を発し拍手を始めた。

するとクマは突然提案をした。「それじゃあ面白味が無いから、他己紹介にしようよ」

「なに、それ。蛸がどうかしたの」ヒナコが怪訝な顔をする。

「いや、そうじゃなくて、他人がその人に成り代わって紹介するんだよ。例えばやって

みると・・・はい、僕がアグリーです。昭和32年目黒区の五本木生まれ、今でもそに

住んでいます。家族は両親と弟の四人です。趣味は音楽全般、聴く事とあとギターを

少々弾きます。ハーモニカもやってます。好きなミュージシャンは何といってもビート

ルズ、他には何でも聴きます。歌も作っていて、20世紀最高のメロディーメーカーに

なる予定です。クマと違ってテクニックよりもセンスが大事だと考えています。後は、

キャンディーズの蘭ちゃんの熱烈なファンです。好きな作家はアガサ・クリスティー

僕のペンネームは阿笠栗助 ・・・。他に何かあったっけ・・・」

「いや、もうそれだけ言えば十分」アグリーは苦笑いをした。

クマも少し笑って応えたが、その時ふと全く別の考えが心をよぎった。

『何故自分は今ここにいるのだろうか』

 この集合体への参加を最初に求められた時、クマにはナッパという存在があった。

たとえナッパ自身は既に心が揺れていたとしても、少なくともクマの中では未だそれは

脈々と息づいていたのだ。

     ・・・それは春の日の柔らかな日差し

           夏の日の暖かな雨だれ

           秋の日の爽やかなそよ風

           冬の日の穢れない粉雪・・・ 

 これ迄失恋の歌しか作れなかったクマは、そんな詩を書き、遅れ馳せながら訪れた所

謂青春を謳歌するつもりだった。しかし、その歌は結局歌われることも、決して記録さ

れることも無く、静かに記憶の淵に消えていく運命を辿った。

『そして今、自分はここにいるんだ』

 

 「鍵付きサナダが小遣いをくれたよ」クマは教室に戻るとそう言った。学校は既に夏

休みに入っていたが、2年4組の文化祭の責任者4名は打ち合わせの為登校し、出し物

である演劇「父帰る」の進捗状況と今後の段取りを確認していた。

 概ね予定通り進んでいる事が分かると、クマは早々に帰宅する旨を皆に提案した。何

故なら如何せん冷房設備の無い教室は長時間居座るには暑過ぎたのだ。

そして全員が了承すると、筆頭責任者であるクマは、日直の教員へ下校届を出しに職員

室へ行った。するとその日は、たまたま彼等の担任サナダ虫が当番で出勤しており、こ

こでもまた劇の進捗状況の話になった。

 他のクラスに比べ2年4組の準備は抜群に進んでいる、と職員室でも話題になってい

るらしく担任は満足そうであった。そしてその感謝の気持ちかどうか解らないが、クマ

が退出しようとすると、彼は自分の財布から千円札を取り出し、「何か冷たい物でも食

べて帰りなさい」と言って渡してくれたのだった。

 クマ、マサヒロ、メガネユキコそしてナッパの四人は取敢えず学校のそばにある唯一

の食堂、駒沢飯店でかき氷を食べることにした。クマにしてみれば、たとえ二人きりの

デートではないにせよ、ナッパとこうして特別な時間を共有することが、この上もなく

幸せに思えてならなかった。

 早々にかき氷を食べ終わると、まだ少し残金があったので隣の駄菓子屋で花火を買っ

た。特段深い理由は無い、校舎の影で線香花火でもしようとクマが言い出したのだっ

た。そして花火を持ったナッパがまるで子供のようにはしゃぐ様を、彼はそのすぐ後ろ

を歩きながら、まるで恋人のような目をして愛おしく見つめていた。

 その日から間もなく、クマはその一瞬を歌に閉じ込めようと言葉を探し、初めてまと

もなオリジナル曲を作って、それを「君に捧げる歌」と名付けた。 

     日差しに歩く後ろ姿が 子供のようにはしゃいでたね

     買ったばかりの花火を振りながら 夜までとても待てないなんて

     あの時言えばよかった 君がとても好きだって

     僕の心を知ってるように 君の瞳が笑っていた

1973年7月、眩しい日差しが照りつける夏は、まだ始まったばかりだった。

 

 その日から10か月余り、状況は大きく変化し、物語は等々力のヒナコの家にたどり

着いた。周囲の人間が望むと望まざるとに拘らず。

 

 クマの要領を真似てアグリーがクマを、ヒナコとムーがそれぞれお互いを紹介し合

い、他己紹介は無事終了、ミーティングはいよいよ本題に移った。

 「それで、一体何をするの」クマが誰とは無しに問いかけた。彼は最初から、自分と

アグリー二人はヒナコとムーの歌のバックでギターを弾くだけだと考えており、曲名さ

え聞けば直ぐにでも完全コピーするつもりでいた。

「それが未だ決まってないんだ」ヒナコはそう答え、ラジカセのスイッチを押した。流

れ出した曲は何とアグリーが作った「僕達のナパガール」だった。そのテープはこれま

でクマとアグリーが多重録音したオリジナル曲をクマが編集しアグリーに渡したもの

だ。

「アグリーどんに借りたの」ヒナコの言葉にクマは黙って頷いた。

「こんな風に自分達が作った歌を録音出来たらいいよね」口数の少ないムーが呟いた。

「これはこれで結構大変だったんだよ、センヌキは間違えるしクマは怒るし」アグリー

はそう言ってニヤっと笑いクマを見た。

「えー、白クマのおじさんって怒るんだ」何故かムーだけはクマの事を白クマのおじさ

んと呼んでいた。

「まあ、聖人君子では無いし怒ると言ってもねえ」クマは本当のおじさんみたいな言い

方をして笑ってみせた。たとえ心の中は嵐が吹き荒れていようと、それ位の振る舞いを

することは出来る。

 テープは続いて二曲目のクマの作品「落ち葉の丘」が始まるところだった。

         f:id:napdan325:20181011231519j:plain

緒永廣康 「ソメチメス」(sometimes)47

27.ただその四十分の為だけに(「告別演奏會顛末記」その後)(9)

 

 クマはまた深沢八丁目のバス停へ通じるいつもの桜並木を歩いていた。女性司書教諭

との会話に示唆されるところはあったし、なにより人見知りもせず自然に話が出来た事

が嬉しかった。 あのような人物が教鞭をとればいいのにとも考えたが、それは彼女が

言うところの「月の裏側」の部分なのかも知れなかった。

 歩き慣れた道の左右前方の景色は先週と変わりが無い。それは至極当然の事のように

思える。しかし、そこには大きく異なるものがある。なによりもそれらを見る目が全く

変わってしまったのだ。つい先週までは優しい気持ちで物事を眺めることが出来たはず

だったが、今は初夏の暖かな陽光さえもそれを拒否するかのように冷たく感じられた。

 とにかく目に映る物がすべてナッパを思い出させた。それだけでは無い、例えば歌。

2-4フェアウェル・コンサートでナッパのリズム外れの歌に合わせ、クマがギターを

弾いたアグネス・チャンの「草原の輝き」。あの旋律を聞くことがあれば、必ずナッパ

を思い起こさせる筈だ。

 そしてその記憶が蘇る度、クマの心は締め付けられ、孤独感に苛まれる。

『こんな事を続けていてはいけない』クマは充分それを承知していた。しかし、そこか

ら脱却するには更に時間が必要な事も事実であった。『唯、このまま無為無策に日々を

費やすしか術は無いのか。そもそも、決して誰一人妨げる者もなく、むしろ好意的な支

援さえも得た二人の関係が、何故、こんなに切ない思い出に変わらなければいけないの

か』クマは自分が一体どこで間違ってしまったのか、そればかりを考えていた。

『しかし、どこかで結論を出し、運命と折り合いをつけなければならない』それが妥協

か諦めか、そのいずれにせよクマには受け入れる決心が必要だった。

『昔ならば、外人部隊に入る手もあったが』ピーナッツというコミックに出てくるビー

グル犬の台詞が浮かんだ。クマは『未だ自分を茶化す余裕がある』と寂しく微笑んでい

た。

 

 「あっ、そうだったんだ。何だかチャコは曲者かも知れないね」メガネユキコはいつ

も通り歯に衣着せぬ物言いをした。クマは学校を出る前にメガネユキコとヒナコには、

レコードに添えられていた封筒はナッパの手紙ではなく、チャコのレポートだった話を

報告していた。

「で、そのレポートの中身は」ヒナコが興味ありげに訊ねる。

「それがS&Gの曲の感想文みたいな・・・」クマはそう答えた。

「なに、それ」

「いや、でも中々よく書けていると思った。これがそう」クマはレポート用紙を一枚取

り出して見せた。

 

     アルバム・タイトル/パセリ・セージ・ローズマリー&タイム

     これは全て香辛料の名前です。私はハンバーグを作る時、セージを入れま

     す。そうするとかなりお店の味に近づきます。でも何故これがアルバムのタ

     イトルなのでしょう。もちろん、この言葉は一曲目のスカボロフェアに出て

     くる一節ですが、私はこの一枚のアルバムに色々な香りが散りばめられてい

     る事を言いたいのではないかと思いました。クマさんはどう考えますか。

     

     Side A-1 スカボロフェア

     この曲の歌詞を見た瞬間、私は自分が持っているボブ・ディランの「フリー

     ホイーリン」に入っている「北国の少女」を思い出しました。何故なら、

     「Remeber me to one who live there, She once was a true love of mine」が

     全く同じだからです。どうしてこうなるのか分かりませんが、どちらも英国

     のトラディショナルを基にした歌らしいですね。

     そしてこのスカボロフェア(詠唱)は、二つの詩が重なり合って出来ていま

     す。ママス&パパスの「夢のカリフォルニア」のように同じ言葉を繰り返す

     のではなく、一つは美しいメインのメロディーに合わせた牧歌的な歌詞、も

     う一つは、銃を磨きながら上官の攻撃命令を待つ兵士の事を歌った歌詞、と

     いう組み合わせ。実はこの二つの矛盾がこの曲の主題だと思います。アメリ

     カは日本と違って、今ベトナムで戦争を続けている事を、改めて気づかされ

     ます。この手法はアルバムの最後に入っている「7時のニュース/きよしこ

     の夜」にも通じるものです。静かなクリスマスソングと共に、キング牧師

     殺事件等、殺伐としたニュースを伝えるアナウンスが印象的です。新谷のり

     子が歌った「フランシーヌの場合」は、この発想を模倣したものと私は断定

     します。

     とにかく、この全く異なる歌詞の組み合わせという斬新かつ挑戦的な姿勢は

                素晴らく、しかも裏の「 A soldier cleans and  polishes a gun. 」と表の

     「Then she''ll be a true love of mine.」のように重なる部分で韻を踏むという

      高度な技術も見られ、発見する方としてはとても嬉しくなってしまいまし

     た。クマさんの意見を聞かせて下さ い。

 

 ヒナコはそれを読み終わると、少し不満そうな顔になり、メガネユキコは「なかなか

やるわね、でも何の為にこんなに一生懸命書いているのかしら」と疑問を呈した。

恐らく彼女はその答えも用意していたのだろうが、傷心の自分を慮って敢てそれは言わ

ないのだと、クマには解っていた。

 「ねえクマさん、文化祭、やっぱり一緒にやろうよ」別れ際、ヒナコがそう言った。

桜並木を一人歩くクマにとって、その言葉はまるで水島上等兵に語りかけるインコのよ

うに繰り返し心の窓を叩いていた。『そう、またあの世界へ戻るしかないかも知れな

い』

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      *      *      *      *      *

 

 

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緒永廣康 「ソメチメス」(sometimes)46

26.ただその四十分の為だけに(「告別演奏會顛末記」その後)(8)

 

 「クマくん」若い女性司書教諭はそう声を掛けると、直ぐに「あなたに悪いニュース

があります」と、外国映画の台詞を直訳したかのような表現で続けた。しかし、それを

聞いたクマは別に嫌な気はせず、それどころか随分洒落た言い方をするな、とさえ思っ

た。

「言わなくても解ると思うけど、君をここに置いておく訳にはいきません」

その言葉にクマは心外という表情を浮かべて、殊更大袈裟に両手を広げ、ゆっくりと

首を横に振る。それこそまるで洋画の俳優がそうするみたいに。

「私は伝えるべき事は伝えました、本件に関し君に拒否権はありません。直ちに三年一

組の教室に戻り、現国の授業を受けて下さい」

『この芝居がかった言葉使いは、多分誰かが作ったルールなのだ。だからこの世界では

誰もがそのルールを守らなければならない、役者が与えられた台本に従うように』

「オーケー、ボス・・・」そう答えたところでクマは目が覚めた。『夢だったのか』

 時計を見ると午後三時。そこはホリゾントライトに照らされた舞台の上ではなく、窓

の外から五月の暖かな日差しが注ぐ図書室の中だった。

そしてクマは周囲を見回し、まるで一人取り残された難民のように、ぽつんと座ってい

る自分に気づいたのだ。

 『少なくともその夢を見ていた間、悲しい現実を忘れることが出来た』クマはそう思

った。目覚めと共に否応なしに蘇ったあの悪夢のような衝撃的な事実。それを突き付け

られてから、未だ一日も経っていない。『そう、確かにナッパは去ってしまった』そう

考えると、自分が人影の無い夕暮れの街はずれを、行く当ても頼る物も無く、後悔と不

安に心を削り取られながら、一人放心したように歩いている感覚に捕らわれてしまう。

クマは窓の外を眺め、雲の切れ間から差し込む光の帯を探した。しかし朝から五月晴れ

の空は午後になってもそのまま続いており、雲一つ見当たらなかった。

『光の帯の空間転送装置は一人分の能力しかないのか』

そう考えているうちにクマの脳裏には、ナッパと二人で通り過ぎてきた日々の、輝いて

見える部分だけが次々と浮かび、気が付くと涙が止めどなく流れ始めた。 そして、

いつ、どこで、誰が、何を、どう、間違えたのか。またそれは何故なのか。クマは泣き

ながら五つのWと一つのHを指を折って確認していた。クマはそんな事をしている自分

が哀れでもあり、また可笑しくも愛おしくもあるのだった。

 「どうかしましたか」知らぬ間にクマの横には司書教諭が立っており、怪訝そうな顔

をしてそう訊ねた。

「先生」クマは今まで一度も口をきいた事のない彼女に対し、思わず自分でも予期せぬ

言葉を発した。

「先生は取り返しのつかない出来事を経験した事はありますか」

「・・・それは何度もあると思うけど。例えば歳を取ったりとか」

「いいえ、そんなのではなくて、何て言うのか、そう、言わなくてもよかった事を言っ

てしまったりとか」

「・・・今こうして会話をしているけれど、私は私が作り上げた君と話していると思

うの。こう言えば君がどう反応するか、君の隣に作ったもう一人の君の顔色をうかがい

ながら、次の言葉を探しているの。だから、どれだけ言葉を尽くしても、それは想像の

領域のコミュニケーションでしかない。でも私達は切れば血の出る現実に生きている

・・・言っている意味が解る」

部屋の中に、内容とは裏腹な司書教諭の屈託のない声が響いた。

「多分、判る、と、思います」クマは考えながら答えた。

「だったらオーケー。失恋でもしたの、人を好きになるのは理屈じゃないわ。大抵は一

瞬の気の迷いか、大いなる勘違い。まあ若いんだから元気を出しなさい。月並みな言葉

だけれど」

「先生は恋愛に恨みでもあるんですか」クマは思わず笑顔で言った。

「そんな事はないけど、でも些細な言葉の行き違いで壊れてしまうような繋がりなら、

元々大した事が無い証拠。そんな関係なら幾らでも転がっている。それで相手が本当は

何を考えているかなんて誰にも判る筈がない。だって自分で自分の事さえ判らないんだ

から。君は完全に自分自身を把握していると思う。人は誰でも、決して日の当たらない

月の裏側みたいな部分を持って生きているって、私はそう思うけど」

クマがまだその言葉の意味を頭の中で整理している間に、彼女はもう一言付け加えた。

「まあ、でも嘘はダメね。特に直ぐバレる嘘は。今日の午後、授業は無いと言うのは最

低。取り返しのつかない出来事を経験した事って、今日君を見逃してしまった事かも知

れない」

 彼女は笑っていたしクマも仕方なく笑うしかなかった。この台本のルールに従って。

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緒永廣康 「ソメチメス」(sometimes)45

25.ただその四十分の為だけに(「告別演奏會顛末記」その後)(7)

 

 昼休みが終了し五時限目の授業開始のチャイムが鳴り始めても、クマは図書室から出

ようとはせず、机の上のレポート用紙の束を前に座ったままだ。昨夜から殆ど一睡も

出来なかったせいで、彼の両眼は陽光に輝く雪面をサングラス無しで過ごした時のよう

に、真っ赤に充血していた。それでも卒業に必要な最低限の授業しか選択していない彼

は、取敢えず登校する事が、気を紛らわす唯一の方法だと思っていた。

 しかし週明けの月曜日、彼は必修科目である現代国語Ⅲの授業を自主休講してまで、

気になる忌々しいその文字の羅列を読む方を選んだのだった。

  図書室に他の生徒は誰もおらず、若い女性の司書教諭がクマのところへやって来て

「授業はどうしたの」と尋ねた。「今日は何もないので自習しています」クマがそう答

えると、彼女は学年、クラス、氏名を聴取し手帳に書き込んだ。『後で職員室で調べら

れるとマズイ事になるかも』とクマは考えたが、日頃問題行動を起こしている訳ではな

いし、たとえバレても然したる支障は無い。それが彼の出した結論だった。そして今、

ここに来る前に起きた出来事を、もう一度順序立てて思い返してみた。

 

 二時限目と三時限目の間のやや長い休み時間の事、クマが次の授業、英文法の教科書

を見直していると、目の前に人が立っている気配がする。

「こんにちは」どこかで聞いたような声にクマは顔を上げた。そこには何とチャコが

いた。

「クマさん、こんにちは」チャコはいたって朗らかに言った。彼女は前回とは違い眼鏡

をかけており、それは意外と似合って理知的にさえ見えた。

「こんにちは、演劇部の話は上手く進んでる」クマは大切なものを失くし、心に吹き荒

ぶ嵐を感じられないよう、出来るだけクールに応えた。

「いいえ、あれはもう諦めて今日は別の用事で来ました」彼女はそう言うと抱えていた

紙の手提げからⅬP盤二枚を取り出して見せた。それはクマがナッパに貸していたサイモ

ン&ガーファンクルの「パセリ・セージ・ローズマリー・アンド・タイム」と「ブック

エンド」というアルバムだった。

 「説明するとややっこしいんですが」チャコは相手が当惑する事を見越していたかの

ように言った。

「手短にお願いします」クマの声は明らかに不快感を帯びている。

「私、ナッパちゃんと中学で同じクラスだったんです。それでこの間、彼女に会ったら

このレコードを持っているので、どうしたのって聞いたらクマさんから借りていたのを

返さなくてはいけない、と言うので私に貸してと頼んだら、ダメ自分が返した後、頼め

ばいいじゃないと言うし、それなら私からクマさんにこれを持って行って、直接話すっ

て無理やり盗ってきたんです」

「何も聞いてないけど」クマはボッソっと言った。

チャコはそれに構わず「私、それで他にも色々聞いちゃった。あっ、私と彼女って昔か

ら結構仲がいいんです、家も近所だし」と続けた。

『これは本当にややこしい事になるかも』とクマは思った。

 チャコは一頻り言いたいことを言うとレコードを置いて帰って行き、クマは手提げ袋

の中を覗いて、分厚い封筒が一通入っているのを見つけた。そして、それがナッパから

の手紙なのかどうか確認しようとした時、三時限目の授業が始まってしまったのだ。

 三年になってからクマは教室中央の最前列の席を自分で選択しており、流石に教員の

目を気を考えればその封書を取り出す訳にはいかない。

そんな彼に、後ろに座っている女子が、教員の目を盗んでクマの肩を叩いた。見るとレ

ポート用紙を折りたたみ、表にクマさんへと書かれたメガネユキコからのメモだった。

彼女は以前から時折授業中に走り書きの手紙をよこすことがあった。

「憂うつそうな顔をしてますね。さっきチャコが来てたみたいだけど、何かありました

か」

クマは教員が黒板の方を向いた時、斜め後ろを振り返るとメガネユキコと目が合ったの

で、『大丈夫』という表情を作ってみせた。

 四時限目、クマは教室移動に時間を取られ、分厚い封書は手付かずのままであった。

そして、午前中の授業が終了すると、メガネユキコが話があると言ってきたので、ヒナ

コと三人、誰にも聞かれないで済むよう中庭にベンチに移動した。どうやら全方位外交

のヒナコが短い休み時間を使い情報収集してきたようだった。

 チャコに関する情報は、以前いきなり演劇部を作ろうと言いに来て以降、何ももたら

されていなかった為、今回の彼女の話は初めて聞くものばかりであったが、クマにとっ

て唯一無二の存在だったナッパが離れてしまった今となっては、それは特段興味を引く

ものでは無かった。

 チャコはナッパと同じ小学校に通い中学二年と三年で同級生となり、高校は私立大学

の付属校に進学したが、何らかの理由で二年生の三学期に深沢高校に編入して来たらし

く、それがクマ達がその存在を全く認識していなかった理由だと思われた。

 クマが取敢えずヒナコに礼を言うと、メガネユキコがためらいがちに「ナッパちゃん

と何かあったの」と訊ねた。

「いや、ちょっと」クマが少し眉をひそめるとメガネユキコは「いえいえ、別にいいん

だけど」と言って、二度と同じ質問はしなかった。

 

 クマは漸く分厚い封筒を開いた。中身はナッパからの手紙ではなく、予想だにしな

いチャコが書いたクマの行動分析とレコードの感想文だった。『なんなんだ、これは』

クマは失望とも安堵とも、そして怒りともつかない不思議な感覚に捕らわれていた。

 

 前略

実を言うと、ナッパさんからこのレコードを強引に受け取った後、直ぐには返さず自宅

で聞いてみました。先ず思ったのは、何故この二枚なのかという事です。サイモンと

ガーファンクルと言えば、普通、誰でも「明日に架ける橋」だと考えるのに、どうして

なんでしょうか。私の答えは、先ずクマさんがマニアであるという事。そしてそれを

ナッパさんに誇示したいと思っている事。自分の趣味を相手に伝え、そこから新たな関

係を展開しようという発想です。でもいきなりこれを貸された方とすれば、かなり面

喰ってしまうと思います。事前にもっと会話をするべきだったのではないでしょうか。

 『だった・・・。何故、過去形なのか。これは一体いつ書かれたものなのか』クマは未

だ延々と続く文字列の前に、一人立ち盡すしか術は無かった。

 

 そろそろいつもの仲間から、救いの手が差し伸べられてもよい頃合いだった。

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緒永廣康 「ソメチメス」(sometimes)44

 24.ただその四十分の為だけに(「告別演奏會顛末記」その後)(6)

 

 まだ春休みだった四月初め、明治神宮での初デートで、二年間恋焦がれ続けたナッパ

といきなり口論をしてしまい、それ以来クマは少し冷却期間を置いていた。いや、その

表現は正しいとは言えない。彼は『自分は嫌われてしまったのではないか』という、考

えただけでも恐ろしい強迫観念にかられて日々悶々と過ごしていたのだ。

    『こんなことならばデートなどしなければ良かったかも知れない』そのような考えが

脳裏をかすめたが、それは間違った捉え方だった。確かに二年生の時の文化祭に関わる

一連の流れの中で、クマとナッパはかなりの時間を共有した。しかし、それは偶然同じ

高校に入学し同じクラスになっただけの関係以上のものではない。しかも三年では全く

違うクラスに選別され、放っておけばまた、単に顔と名前を知っている唯の同窓生に戻

ることは確実だった。そしてそれを回避すべく、起死回生を狙って無理やり立ち上げた

2-4フェアウェル・コンサートも淡々と終わってしまい、三月末のクラス合宿の帰り

道でデートに誘うことが、与えられた最期のチャンスだったのだ。

 『誰にも頼れない』クマは相変わらず依存体質から抜け切れずにいたが、アグリーや

センヌキ、またアガタやダンディーといった、かっての仲間達に今更泣きつく訳にもい

かず、女子の中で唯一人親しく付き合ってきたメガネユキコや、煮え切らないクマと

ナッパの間を取り持ってくれた、2-4インケングループのニッカやホナミに相談する

事も出来なかった。第一カッコ悪いし、折角の厚意を無にしてしまったようで、申し開

きのしようが無いと思った為である。

 とはいえ、押し潰されそうな不安から逃れる為には、その不安自体を払拭しなければ

ならない事は明白である。『さて、具体的に何をすればいいのか』しかしクマはまた必

要以上に考え込んでしまう。取り敢えずナッパと会って話す為、校舎を三階まで上がっ

て三年八組の教室を訪ねることを思いついたが、唐突過ぎるような気もして先ずは電話

か手紙かと。とにかく彼はこの手の問題に関しては極端に想像力を欠き、「傾向と対

策」は五里霧中、全く闇の中に閉ざされたままだった。

 

「あっ、魚が跳ねた」ナッパは洒落た内装のあんみつ屋の中央にある、少し大き目の水

槽の波紋を指して、さもそれが大事件のように叫んだ。『僕はいままで、どうでもいい

詰まらない事を騒ぎ立てる者は嫌いだったし、白々しい事を言う奴も嫌だった。しかし

ナッパは違う。彼女が殊更驚いた時や、分り切った事をくどくどと説明する時も、僕は

何故か素直にそれを受け止める事が出来る。当然の事ながら、確かに彼女は他の誰とも

異なるが、彼女は僕を優しい人間にしてくれる。彼女の存在があるというだけで僕は落

ち着き安らぐ。しかし彼女はどうだろうか。彼女は多くの物を僕に与えてくれるが、僕

が彼女に与える物は何も無い。そう何一つ・・・。僕はしかし、彼女に対し誠実であれ

ばいい。自分を偽らなければ、それでいい』

 これら殆ど妄想に近い発想は、すべてクマの恋するが故の相手に対する盲目と過大評

価が成せる業だった。

 

 クマは漸くあることに気づいた。『何故、僕はあんなに大切に想ってきたナッパに連

絡も取らず、一人で無駄に時間を過ごしてしまったのか。多分それは彼女から交際打切

りの最後通牒を突き付けられるのを、先延ばしして来ただけなのではないか』

思い返せば、彼女から受け入れられなかった時のことばかりを恐れ、自分の想いを打ち

明けられず、ナッパが自分ともっと親しくなりたいと思っている事を、ニッカとダン

ディーのラインを通じ伝え聞き、初めてデートに誘うのを決断した三月末と同じだっ

た。結局これら決断力の無さは彼女から否定された時、自分の存在価値が損なわれてし

まう、それがクマが最も恐れる事であった。

「The river can be hot or cold. and you should dive right into it.」(川が熱かろうが冷た

かろうが、お前さんは飛び込きゃならない)デイビッド・クロスビーは「ページ43」

という曲でそう歌っていた。そして、クマはついに決心したのだった。

 先ず電話の受話器を取り上げ大きく深呼吸をする。『まるで深沢うたたね団が2-4

フェアウェル・コンサートで歌った「恋のダイヤル6700」の歌詞みたいな心境だ』

彼は苦笑いを浮かべ、暗記してしまった番号を回す。そして呼び出し音が鳴り始めた。

『ああ、胃が痛む、心臓に悪い』

 クマの耳元でピーナッツ・コミックのビーグル犬が、世界的に有名な第一次世界大戦

パイロットに扮してこう呟いている、「こんな出撃の繰り返しが間違いなく彼をダメ

にしてしまうだろう」

 

 「私ね、本当は高校の間ずっと、男の子とこんな風に二人っきりで話すなんて絶対無

いと思っていたの」あんみつを食べながらナッパはそう言った。「学校で男の子がたむ

ろしていると、何だか怖いの。一人一人はそうでもないかも知れないけど。だから、こ

んな事初めてだから、何だかあがちゃった」

 店の窓からは西に傾き始めた太陽が、雲の切れ間を通して幾重にも長い光の帯を差掛

けているのが見えた。

「笑わない」彼女は既に自分で笑い出しそうになりながらクマに訊ねた。

「うん。でも何が」彼は何があっても笑わない準備をした。

「本当に笑わない。この間ニッカに話したら大声で笑われたの」

「約束するよ。僕は日本語を話すようになってから嘘をついたことは無い」

「あのね、あんな風に光の帯があると」ナッパは夢を見ているような瞳を窓の外に向け

そう言った。「あのうちの一本がすうっと伸びて来て、私を何処かへ連れて行ってしま

うっていつも考えるの。クマさんはそんな風に考えた事ない?」

クマは笑わなかったし、別に笑うような事ではないと思った。

『これは現実逃避願望か他力本願的冒険心か』

彼はそう考えたが、口には出さなかった。「そんな事考えたこともないよ、まるでかぐ

や姫みたいだね」それが回答だった。彼女は少し笑った。

「クマさんはいつも何を考えているの?」ナッパは水を一口飲んで聞いた。

「僕はね・・・。うん、何を考えているのかなあ。きっとろくでもない、取るに足りな

い事ばかりだと思うよ」実際クマはナッパの事以外、自分が何を考えているのかよく分

からなかった。

「何だか自己嫌悪になってるみたい」

「うん、そう・・・かな」クマはその時いっその事、実はずっと前から君の事が好き

だった、とナッパに言えばよかったと思いながら黙り込んでしまった。

彼女も暫く何も言わなかった。

 会話が途切れている間、クマの頭の中では、ポール・サイモンの「アメリカン・

チューン」という歌の一節が響いていた。

「Still, when I think of the road we're travelin' on, I wonder what's gone wrong. I can't

help it , I wonder what's gone wrong.」(それでもこれからの道のりを考えたら、僕は何

か間違っているのかな。解らないよ、違っているんだろうか)

「寒くない」ナッパは急に思い出したように、両手で肘を覆いながらそう言った。確か

に店の冷房は少し効き過ぎだった。クマは同意し席を立った。

 帰りのバスの中では、また文化祭の話で二人に取り留めの無い会話が戻った。クマが

先に降りる別れ際、ナッパは「今日はとっても楽しかった。どうもありがとう」と微笑

んで見せた。彼は『あれは社交辞令なのかな』と思った。

 

「もしもし」受話器を通して、クマが愛して止まないナッパのハイトーンの声が聞こえ

た。しかしそれから先の記憶を、彼は尽く失くしてしまった。唯、おぼろげながら新た

に認識した事がある、『悪い予感ほど良く当たる』

 ナッパは雲の切れ間から差し込んだ光の帯に乗って、クマを置き去りに何処か遠い所

に行こうとしているか、行ってしまったのだ。まるで殆ど休みなく飛び続けるジョナサ

ン・リヴィングストンのように。

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クロスビー&ナッシュ:ページ43

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ポール・サイモンアメリカン・チューン 

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