緒永廣康 「ソメチメス」(sometimes)44

 24.ただその四十分の為だけに(「告別演奏會顛末記」その後)(6)

 

 まだ春休みだった四月初め、明治神宮での初デートで、二年間恋焦がれ続けたナッパ

といきなり口論をしてしまい、それ以来クマは少し冷却期間を置いていた。いや、その

表現は正しいとは言えない。彼は『自分は嫌われてしまったのではないか』という、考

えただけでも恐ろしい強迫観念にかられて日々悶々と過ごしていたのだ。

    『こんなことならばデートなどしなければ良かったかも知れない』そのような考えが

脳裏をかすめたが、それは間違った捉え方だった。確かに二年生の時の文化祭に関わる

一連の流れの中で、クマとナッパはかなりの時間を共有した。しかし、それは偶然同じ

高校に入学し同じクラスになっただけの関係以上のものではない。しかも三年では全く

違うクラスに選別され、放っておけばまた、単に顔と名前を知っている唯の同窓生に戻

ることは確実だった。そしてそれを回避すべく、起死回生を狙って無理やり立ち上げた

2-4フェアウェル・コンサートも淡々と終わってしまい、三月末のクラス合宿の帰り

道でデートに誘うことが、与えられた最期のチャンスだったのだ。

 『誰にも頼れない』クマは相変わらず依存体質から抜け切れずにいたが、アグリーや

センヌキ、またアガタやダンディーといった、かっての仲間達に今更泣きつく訳にもい

かず、女子の中で唯一人親しく付き合ってきたメガネユキコや、煮え切らないクマと

ナッパの間を取り持ってくれた、2-4インケングループのニッカやホナミに相談する

事も出来なかった。第一カッコ悪いし、折角の厚意を無にしてしまったようで、申し開

きのしようが無いと思った為である。

 とはいえ、押し潰されそうな不安から逃れる為には、その不安自体を払拭しなければ

ならない事は明白である。『さて、具体的に何をすればいいのか』しかしクマはまた必

要以上に考え込んでしまう。取り敢えずナッパと会って話す為、校舎を三階まで上がっ

て三年八組の教室を訪ねることを思いついたが、唐突過ぎるような気もして先ずは電話

か手紙かと。とにかく彼はこの手の問題に関しては極端に想像力を欠き、「傾向と対

策」は五里霧中、全く闇の中に閉ざされたままだった。

 

「あっ、魚が跳ねた」ナッパは洒落た内装のあんみつ屋の中央にある、少し大き目の水

槽の波紋を指して、さもそれが大事件のように叫んだ。『僕はいままで、どうでもいい

詰まらない事を騒ぎ立てる者は嫌いだったし、白々しい事を言う奴も嫌だった。しかし

ナッパは違う。彼女が殊更驚いた時や、分り切った事をくどくどと説明する時も、僕は

何故か素直にそれを受け止める事が出来る。当然の事ながら、確かに彼女は他の誰とも

異なるが、彼女は僕を優しい人間にしてくれる。彼女の存在があるというだけで僕は落

ち着き安らぐ。しかし彼女はどうだろうか。彼女は多くの物を僕に与えてくれるが、僕

が彼女に与える物は何も無い。そう何一つ・・・。僕はしかし、彼女に対し誠実であれ

ばいい。自分を偽らなければ、それでいい』

 これら殆ど妄想に近い発想は、すべてクマの恋するが故の相手に対する盲目と過大評

価が成せる業だった。

 

 クマは漸くあることに気づいた。『何故、僕はあんなに大切に想ってきたナッパに連

絡も取らず、一人で無駄に時間を過ごしてしまったのか。多分それは彼女から交際打切

りの最後通牒を突き付けられるのを、先延ばしして来ただけなのではないか』

思い返せば、彼女から受け入れられなかった時のことばかりを恐れ、自分の想いを打ち

明けられず、ナッパが自分ともっと親しくなりたいと思っている事を、ニッカとダン

ディーのラインを通じ伝え聞き、初めてデートに誘うのを決断した三月末と同じだっ

た。結局これら決断力の無さは彼女から否定された時、自分の存在価値が損なわれてし

まう、それがクマが最も恐れる事であった。

「The river can be hot or cold. and you should dive right into it.」(川が熱かろうが冷た

かろうが、お前さんは飛び込きゃならない)デイビッド・クロスビーは「ページ43」

という曲でそう歌っていた。そして、クマはついに決心したのだった。

 先ず電話の受話器を取り上げ大きく深呼吸をする。『まるで深沢うたたね団が2-4

フェアウェル・コンサートで歌った「恋のダイヤル6700」の歌詞みたいな心境だ』

彼は苦笑いを浮かべ、暗記してしまった番号を回す。そして呼び出し音が鳴り始めた。

『ああ、胃が痛む、心臓に悪い』

 クマの耳元でピーナッツ・コミックのビーグル犬が、世界的に有名な第一次世界大戦

パイロットに扮してこう呟いている、「こんな出撃の繰り返しが間違いなく彼をダメ

にしてしまうだろう」

 

 「私ね、本当は高校の間ずっと、男の子とこんな風に二人っきりで話すなんて絶対無

いと思っていたの」あんみつを食べながらナッパはそう言った。「学校で男の子がたむ

ろしていると、何だか怖いの。一人一人はそうでもないかも知れないけど。だから、こ

んな事初めてだから、何だかあがちゃった」

 店の窓からは西に傾き始めた太陽が、雲の切れ間を通して幾重にも長い光の帯を差掛

けているのが見えた。

「笑わない」彼女は既に自分で笑い出しそうになりながらクマに訊ねた。

「うん。でも何が」彼は何があっても笑わない準備をした。

「本当に笑わない。この間ニッカに話したら大声で笑われたの」

「約束するよ。僕は日本語を話すようになってから嘘をついたことは無い」

「あのね、あんな風に光の帯があると」ナッパは夢を見ているような瞳を窓の外に向け

そう言った。「あのうちの一本がすうっと伸びて来て、私を何処かへ連れて行ってしま

うっていつも考えるの。クマさんはそんな風に考えた事ない?」

クマは笑わなかったし、別に笑うような事ではないと思った。

『これは現実逃避願望か他力本願的冒険心か』

彼はそう考えたが、口には出さなかった。「そんな事考えたこともないよ、まるでかぐ

や姫みたいだね」それが回答だった。彼女は少し笑った。

「クマさんはいつも何を考えているの?」ナッパは水を一口飲んで聞いた。

「僕はね・・・。うん、何を考えているのかなあ。きっとろくでもない、取るに足りな

い事ばかりだと思うよ」実際クマはナッパの事以外、自分が何を考えているのかよく分

からなかった。

「何だか自己嫌悪になってるみたい」

「うん、そう・・・かな」クマはその時いっその事、実はずっと前から君の事が好き

だった、とナッパに言えばよかったと思いながら黙り込んでしまった。

彼女も暫く何も言わなかった。

 会話が途切れている間、クマの頭の中では、ポール・サイモンの「アメリカン・

チューン」という歌の一節が響いていた。

「Still, when I think of the road we're travelin' on, I wonder what's gone wrong. I can't

help it , I wonder what's gone wrong.」(それでもこれからの道のりを考えたら、僕は何

か間違っているのかな。解らないよ、違っているんだろうか)

「寒くない」ナッパは急に思い出したように、両手で肘を覆いながらそう言った。確か

に店の冷房は少し効き過ぎだった。クマは同意し席を立った。

 帰りのバスの中では、また文化祭の話で二人に取り留めの無い会話が戻った。クマが

先に降りる別れ際、ナッパは「今日はとっても楽しかった。どうもありがとう」と微笑

んで見せた。彼は『あれは社交辞令なのかな』と思った。

 

「もしもし」受話器を通して、クマが愛して止まないナッパのハイトーンの声が聞こえ

た。しかしそれから先の記憶を、彼は尽く失くしてしまった。唯、おぼろげながら新た

に認識した事がある、『悪い予感ほど良く当たる』

 ナッパは雲の切れ間から差し込んだ光の帯に乗って、クマを置き去りに何処か遠い所

に行こうとしているか、行ってしまったのだ。まるで殆ど休みなく飛び続けるジョナサ

ン・リヴィングストンのように。

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クロスビー&ナッシュ:ページ43

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ポール・サイモンアメリカン・チューン 

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