緒永廣康 「青春浪漫 告別演奏會顛末記」 4
2.「僕達は週刊DANDYを発行します」編集部一同が宣言した
1974年1月、”軍艦島”と呼ばれる高島炭鉱閉山のニュースが流れていた。 それとは全く関係無く、深沢
全共闘兼新聞委員のアガタの発案のもと、機関誌がクラス内のみ発行される事になった。
全共闘と言っても、所謂学生運動は既にピークを過ぎていたが、校内ではその流れを汲む者が2~3名おり、
入学式等でヘルメットを被りビラを配ったりする他は、特に目立った活動はなかった。その連中の拠点が
新聞委員会であった。
尚、学校は一応制服を定めていたが、生徒の大半は私服で、アイビールック以外の者はGパンに長髪で
登校していた。これ位がかっての運動の名残と言えるものだった。
機関誌”DANDY"の編集は、顔に迫力のあるわりに以外と軟弱なアガタ。彼はその迫力をかわれたのか、
田中正造を扱った三國連太郎主演の映画「襤褸の旗」に出演した経験があった。勿論エキストラの一人
として。服装は上下ジーンズで、いつもマジソン・バッグを持ち歩いていた。もう一人は1年生の2学期、
よその男子校から編入して来て、クマ達が噂でしか聞いた事がなかった " バレンタイン・チョコレート "
とやらを貰った実績のある機関紙名となったダンディー。あとはセンヌキとクマ、四人で始められたが、
のちにアグリーやトシキ、カメといった”深沢うたたね団” の面々も加わった。
この機関誌は思ったより不評で彼等を落胆させたが、特にアガタはアグリーが入った為、「紙面がハイプ
になった」と一時編集部を去ってしまったりした。ハイプとは "ダサイ、クサイ、カッコ悪い" を意味する
彼等だけに通用する言葉で、その反意語はヒップである。
アガタは立場上、反体制的でアナーキーぽい記事を担当し、センヌキはそれを軟弱に追従する文章。クマは
当然ナッパの事しか頭にないので、詩ともエッセイともつかない、何か言っているようで、何も言っていない
意味不明なコラム「深沢うたたね団の伝説」を担当した。例えばこうである。
朽ちかけた長い回廊を抜けた時、早春の陽光は眩しく暖かかった。
透き通った新緑の若葉が風にささめくのを聞き、僕はまた新しい詩を一つ書こうと思った。
汚れなく白い思い出をその言葉に託して、輝くこのひと時を飾ってみよう。
描きかけのカンバスに絵具を重ねて、いつかは別れてゆく二人の後ろ姿を見送るように、
栞をさした頁を開いて泪の跡を辿る。
流れ星が燃え尽きたら僕は広い夜空の何処かに、願い事の一つを失くしたように
星々の間を探すけれど、心の中で歌はいつも独りぼっちだった。
遠い夢の旅路をさすらう人の、あの優しい微笑みにもう一度出会えたら、
白百合の花に包まれたイースターの街に夜明けを求めて、
さあ行こうワトソン君、ガニマールでは頼りにならないからね。
ダンディーは「最初ハイプかと思ったけど、最後はヒップで締めたね。」と評してくれたが、クマはナッパ
がこれを読んで、クスッとでも笑ってくれたのならそれだけで満足だと思っていた。 <続>