緒永廣康 「ソメチメス」(sometimes)60

40.ただその四十分の為だけに(「告別演奏會顛末記」その後)(22)

 

 ヒナコさんグループでの活動を続けながらも、クマは来年二月に迫った大学受験の事

を忘れた訳ではなかった。そしてその為に相変わらず授業終了後は真っ直ぐ帰宅し、午

睡を取った後夕食を済ませて深夜三時頃まで机に向かい、翌朝七時に起きて登校すると

いった生活を続けていた。

 そのような時間の過ごし方はある程度ストイックになることが必要とされるが、クマ

は様々な誘惑に対し一旦背を向けてしまえば、再びそこへ戻るという事は極めて少な

く、またそれに苦痛を感じる事も無かった。もっともそれは=勿論年齢的には禁じられ

ているにせよ=煙草やアルコールといった常習性のある物を一切嗜んでいないから言え

る事かも知れなかったが。

 彼はまたテレビに対しても、その頃NHKで「刑事コロンボ」という非常に興味をそそ

る番組が土曜日の夜放送されており、クマの両親と姉は揃って視聴していたが、その時

間クマだけは一人で二階の自分の部屋に行き一度もそれを見た事がなかった。

 彼が唯一見るといえばコロンボの前に放送される同じNHKの「ステージ101」だけ

で、その番組の音楽監督を務める東海林修の編曲に興味があったからだったが、もう一

つ理由があり、それは大集団のヤング101の中の髪が長く瞳が輝いて見える温碧蓮と

いう女性が、あのナッパの面影に通じるところがあるような気がして、彼女の姿を見る

事も楽しみだったせいもある。その意味から言えば彼は未だナッパという存在に背を向

ける迄には至ってはいなかった事は間違いない。

 

 そんなある日、クマにセンヌキから電話が掛かった。

「オタク、夏休みどっかの講習を受けるの」

「いや、別に何も考えてなかったけど」

「だったら一緒に行かない」

「うん、でもアータは国立志望でしょ、コースが違うんじゃないかな。だいたい何処に

行こうという話」

「共通する教科はあるし。それで代ゼミはちょっとなんだから、一橋学院がいいんじゃ

ないかと思うんだけど」

代ゼミって良くないのか」

「いや、有名過ぎて大衆向けなんじゃないかと」

「そんなもんかな、まあいいけど。一応親の承諾が無いと金が出て来ないんで、それを

聞いてから返事するよ。応募の締め切りとかあるの」

「まだ充分余裕がある」

「オーケー」

結局その夏、クマはセンヌキと一緒に予備校が募集している夏期講習に通う事になっ

た。

  クマは受験する大学を私立文系に絞っていた。それは何と言っても数学が殆ど理解出

来ていない事と、国公立大学よりは受験科目が少ないからで、逆にその事は国語、英

語、社会の三教科だけで勝負する事を意味し、広く浅くなのか狭く深くなのか、どちら

が得策であるか判断に迷うところだった。とくに社会では日本史、世界史、倫社など選

択肢が別れる為、試験そのものがまるでギャンブルのように時の運に左右される可能性

は否めなかった。だが、それはクマだけに限った話ではなく、受験生全員に対し平等で

あり特に不平不満をいう筋合いではない事は言うまでもない。

 

 夏期講習行きを決定して数日後、クマが午前中で授業を終えいつも通りそそくさと教

室を出ようとした時、チャコがドタバタと走って彼を追いかけて来た。

「Long time no see、どうしの

「あの・・・」彼女は息を切らして暫く物が言えない状態だった。「あの、仁昌寺先生

が・・・亡くなったの」

それを聞いて今度はクマが言葉を詰まらせ「えっ・・・」っと短く声を発したまま、暫

く自分の足元を見つめたままであった。しかし極度の驚愕が悲しみの感情をかき消して

しまったのか、彼は妙に平然と落ち着いているかのように見えた。

チャコが続ける。

「先生は秋田県玉川温泉っていう湯治場にずっと行っていたんだって。それでしばら

くは体調も安定してたらいしいんだけど、二週間くらい前、急に具合が悪くなって救急

車で病院に運ばれて、それでそのまま意識が戻らなくて、一昨日の晩息を引き取ったん

ですって」

それを聞いてクマは暫く沈黙したが漸く口を開いた。「うん、そう、そうなんだ。そう

か、仁昌寺先生は死んでしまったんだ」クマはゆっくりと一言ずつ嚙み締めるように言

った。それはそうする事によって今聞いた話を事実として自分に納得させていたのかも

知れないが、頭の中では全く別の事を考えていた。

『それにしても今時湯治なんて前時代的な方法がガンに通用するのだろうか。そしてそ

れを選んだ仁昌寺和子という司書教諭は一体何を考えていたのだろうか』

そしてクマは唯一度きりの彼女との会話を思い出していた。それは五月の暖かな日差し

が注ぐ図書室だった。

 

「どうかしましたか」知らぬ間にクマの横には司書教諭が立っており、怪訝そうな顔

をしてそう訊ねた。

「先生」クマは今まで一度も口をきいた事のない彼女に対し、思わず自分でも予期せぬ

言葉を発した。

「先生は取り返しのつかない出来事を経験した事はありますか」

「・・・それは何度もあると思うけど。例えば歳を取ったりとか」

「いいえ、そんなのではなくて、何て言うのか、そう、言わなくてもよかった事を言っ

てしまったりとか」

「・・・今こうして会話をしているけれど、私は私が作り上げた君という虚像と話して

いると思うの。こう言えば君がどう反応するか、君の隣に作ったもう一人の君の顔色を

うかがいながら、次の言葉を探しているの。だから、どれだけ言葉を尽くしても、それ

は想像の領域のコミュニケーションでしかない。でも私達は切れば血の出る現実に生き

ている・・・言っている意味が解る」

部屋の中に、話の内容とは裏腹な司書教諭の屈託のない声が響いた。

「多分、判る、と、思います」クマは考えながら答えた。

「だったらオーケー。失恋でもしたの、人を好きになるのは理屈じゃないわ。大抵は一

瞬の気の迷いか、大いなる勘違い。まあ若いんだから元気を出しなさい。月並みな言葉

だけれど」

「先生は恋愛に何か含みでもあるんですか」クマは思わず笑顔で言った。

「そんな事はないけど、でも些細な言葉の行き違いで壊れてしまうような繋がりなら、

元々大した事が無い証拠。そんな関係なら幾らでも転がっている。それで相手が本当は

何を考えているかなんて誰にも判る筈がない。だって自分で自分の事さえ判らないんだ

から。君は完全に自分自身を把握していると思う。人は誰でも、決して日の当たらない

月の裏側みたいな部分を持って生きているって、私はそう思うけど」

クマがまだその言葉の意味を頭の中で整理している間に、彼女はもう一言付け加えた。

「まあ、でも嘘はダメね。特に直ぐバレる嘘は。今日の午後、授業は無いと言うのは最

低。取り返しのつかない出来事を経験した事って、今日君を見逃してしまった事かも知

れない」

 彼女は笑っていたしクマも仕方なく笑うしかなかった。

 

 『何故だろうか、初対面の自分に対し彼女がそんな事を言ったのは』クマがそう考

えている時、チャコはまた別の世界に浸っているクマを半ば諦め顔をしながら黙って見

ていた。

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