緒永廣康 「ソメチメス」(sometimes)55

35.ただその四十分の為だけに(「告別演奏會顛末記」その後)(17)

 

 『変わってないな』六年前二週間余りの間、ずっと閉じ込められていたその建物を、

クマは久し振りに見てそう呟いた。そして正面玄関から中に入ると、ひんやりとして少

し消毒液の臭いが漂う空気が、彼の遠い記憶を呼び覚ました。

 過ぎ去った六年の歳月は決して短くはない。しかし誰にでも、何年経とうと決して忘

れない思い出はある。たとえそれが単に入院であったとしても、十二年の人生で初めて

の経験となれば尚更である。

そしてクマはまた、ある種瞑想にも似た思考の迷路に沈み込んで行った。

 『自分は幼い頃から喉が弱かった。風邪を引くと決まって扁桃腺が腫れ、咳が止まら

なくなる。そして四十度近くの高熱。眠っているのか起きているのか、夢か現か、或い

はそれとは全く別の何かか。そのような状態が三日三晩続くと漸く快方に向う。それが

いつものパターンだった。しかし、あの時は違った。

 「肺に白い影が見えるし、ラッセルが酷くなっている。国立第二病院に紹介状を書き

ましょう」医者が母にそう言った。ラッセル、それは一体何なのか。降り積もった雪を

強靭なプロペラで線路から吹き飛ばす黒い機関車みたいな、いや違う、あれは確かロー

タリー車だ。ラッセル車は、そう、アイロンのお化けみたいな形をした物』

 確かに彼はそんな風に様々な事柄に疑問を持った。それは何事も鵜呑みにせず、先ず

は疑ってかかるという姿勢。その事自体に全く問題はない。むしろあるべき姿だという

自負を彼は持っていた。ただ如何にして疑問を解消するのか。まだ小学生だった頃、彼

が置かれた環境は、彼の好奇心を全て満たす程整ってはいなかった。

 ラッセルの正体は不明のまま、国立の大病院での検査の結果、彼は即日入院治療とな

った。

『聞けばよかったのだ。それに答えられる誰かに』クマはそう思った。そしてそれが最

も安易で且つ確実そうな方策であることも知っていた。

 しかし、彼は出来得る限り自分自身で物事を解決したいと考える人間でもあった。

『そう、ラッセルにしても、入院中、何故ペニシリンを腕に打つのかという疑問も、そ

の場で医者に聞けば、多分小学六年生にも分かり易く説明してくれた筈だ。それをしな

いまま、最寄りの病院から紹介状を受け取っただけで退出し、また、ここ国立第二病院

も退院してしまったのは何故なのか。

 今ここで心に棘が刺さったままの懸案事項を解決しなければならない。長く閉じこも

って来た殻の破壊が、自らの手で出来るようになった事を証明する必要があるのだ。し

かし、それにしても今、自分は馬鹿馬鹿しい程芝居がかった言い方をしている。全く滑

稽としか言いようが無いな』

ともすれば大袈裟な表現方法に走る自分の癖を、クマはよく理解していた。そして、自

嘲しながら、ふと傍らにいるチャコに気づく。

『まずいな、また嫌味を言われるかも知れない。僕は別に異次元にいる訳じゃない』

「構わないわよ」チャコがクマの心の動きを見透かしたように上目遣いで言った。

「私、先生の居場所を聞いてくるわ」そして彼女は総合受付の方に向かって歩き始め

る。

「ああ。僕も一緒に行くよ。ちょっと確認したい事があるんだ」

 チャコが司書教諭仁昌寺和子の病棟を、年長者らしき女性に確認している間、クマは

受付のとなりに座っているひっつめ髪の若い女性に訊ねた。

「あのう、つかぬ事を伺いますが」

「はい、何でしょうか」彼女は顔を上げた。

「この病院の名前が国立第二病院と言うのは何故ですか」クマは少し照れ臭そうに言

う。

 受付嬢は一瞬眉をひそめ怪訝そうな顔をしたが、すぐに笑顔を作り、そして答えた。

「国立第一病院が新宿にありますが、それは知っていますか」

「いいえ、でも第二がある以上、第一があるのが普通ですよね」

「そうですね。でもそれだけではなくて、ここは昔は、海軍軍医学校第二付属病院と言

ったそうです。新宿の第一病院は元は陸軍病院だったので全く違う組織。ただ、第一付

属病院があったのかどうか。それ以上のことは私も判りません」

「そうですか、ふうん、そんな話があるんですね」クマは目を大きく広げ二三度頷い

た。

 実際のところ彼は非常に満足していた。得られた情報はごく僅かではあったが、そ

れをとても貴重な宝石みたいに感じた。

『何しろ、自分から相手に話しかけた事が評価できる。これで、帝国陸軍と海軍の違い

を調べれば、結構面白いレポートが書けるかも知れない』彼が太平洋戦争について知っ

ている事は決して多くはなかった。『今ならまだ生き証人が沢山いるし』

 「また何か考えていた」チャコはピーナッツコミックの登場人物が相手をからかう時の

ような目をしてクマに言った。

「どこだか分かった」彼は苦笑しながらチャコに聞く。

「それが、一昨日退院したんですって」

「えっ、治った訳じゃないよね」クマは確認するかのようにゆっくりと発音した。

「ううん、そうじゃないみたいだけど、詳しい事は判らないので、家に帰って母に聞い

てみます。ごめんなさい、よく調べておけば良かった」

「いや、全然。気にすることなんか無いよ」

「これからどうする」

「そう、家に帰ろうかな、色々ほったらかしにしている事もあるし」

「うん、先生の事何か分かったら連絡する。今日はありがとう」

「いいや」クマは精一杯の笑顔をチャコに向けて言い、そしてギターを弾くような手つ

きをした。

「それより僕はそろそろ仲間の所に帰らなきゃ」

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