緒永廣康 「青春浪漫 告別演奏會顛末記」 1
1.「コンサートやらないか」アグリーが言い出した (1)
国道246号線、通称玉川通りは駒沢を過ぎると多摩川に向かってだらだら坂が続く。その途中、
深沢八丁目のバス停から駒沢通りへ抜ける桜並木の道沿いに東京都立深沢高校はあった。
創立されてから10年足らずの新設校で、学校群制度が導入されて以降、都立高校の中では中位の
レベルでありながら、現役の大学合格率は低下の一途を辿り、生徒の多くは「一浪」さえすれば
といった一種の諦め感に似た漠然とした不安と、青春に対する淡い期待の中にいた。
そして1973年、円はついに変動相場制に移行し、OPECの原油価格引き上げにより第一次石油危機
が吹き荒れている頃、彼等は高校2年生。 無知で無邪気で恐ろしい程純情で、それでいて妙な自信
だけは持っている17歳だった。
その年も押し迫った12月、上野毛のセンヌキの家にクラスメイトのアグリーとクマが揃い、
アグリーの第1作目のソロアルバムの制作が行われていた。制作と言っても本格的にレコードを
作る訳ではない。カセットデッキ2台とプリメインアンプのミキサー機能を使い、ダビングしながら
音を重ね、自作の歌を録音するだけの要はレコーディングごっこに過ぎなかったが、それでも
既製のフォークソングをギターを搔きむしって歌っている連中より、自分達はクリエイティブな事を
やっているのだと、彼等はそう信じていた。
現に11月クマが一人で4回重ねて作ったソロ第一弾のテープは、ヒスノイズの塊であったにも
拘わらず、音楽仲間であるアグリーの闘争心を充分煽り、学期末試験後の「試験休み」が始まると
即、このセッション=レコーディングごっこ=が開始されることになったのである。 <続>