緒永廣康 「ソメチメス」(sometimes)64

44.ただその四十分の為だけに(「告別演奏會顛末記」その後)(26)

 

 放課後、言われた通りクマが職員室へ行くと、重藤教員は何か書き物をしていた。「3年1組のクマです。何か御用でしょうか」そう声をかけると彼女は顔を上げ「別に今更名乗らなくても判ってるよ。早速だけど、君は亡くなった司書教諭の仁昌寺先生と親しかったの」そう切り出した。

 「いえ、図書室で一度話をした事があるだけですが、あと仁昌寺先生が学生時代に家庭教師をしていた時の生徒が今、重藤先生が担任をしている8組にいて、その子から少し話を聞きました」

 「そう、チャコと仲がいいんだ」

 「いえ、特にそういうわけでも。偶に話をするだけです」クマは一瞬同じ組クラスにいるナッパの名前が出るのではないかと恐れたが、その心配はなさそうだった。

 「まあいいや。ところでこれ、仁昌寺先生から。形見分け」彼女はそう言って机の上に置いてある物を指さした。

 それは真新しいボックスに入った書籍7冊で、箱の表には「失われた時を求めて」と書かれていた。クマはそんな著作があると知らなかったが、タイトルには聞き覚えがあった。

 1971年、ヤマハポプコンの延長として主催する「世界歌謡祭」でグランプリを取った「出発(たびだち)の歌」の副題が確かそんな感じだった。あれは小室等が結成した六文銭の及川恒平が作詞したはずだ。あの歌詞とこの本の内容に関連するところはあるのか、触発されたのか、それとも単に真似ただけなのか。多分最後の理由だろうとクマは思った。

 「これは何が書かれているのですか」クマは重藤に訊ねた。

 「有名なフランス小説。君は音楽が好きらしいけど小説はあまり読まない」

 「全く読まない事もありませんが、夏目漱石は殆ど読んでますし、フランスならばせいぜいデュマとか。あっ、自然主義作家のドーデーは好きです。『風車小屋便り』や『月曜物語』。それとテグジュペリも何冊か読みました。勿論『星の王子さま』以外もという意味です。

 「ほう、結構文学少年してるんだ」

 「いいえ、これが全部一つの物語なんですか。先生は読んだ事はあるのですか」

 「読んでいません。長いし、もっとも少し前に翻訳版が出た『百年の孤独』も長いけど。これは難解だというし、おまけに1万8千円もする。でも多くの作家に影響を与えた傑作って言われているよ」

 「そうですか、読んでみる価値はあるって事ですね。それにしては随分高額のような気もしますが。そうか、仁昌寺先生はこれを読みたかったんですかね」

 クマはそれから少し考え事をするように天井を見上げた。そしてあたかも子供が難解な問題を解いたかの如く声を弾ませて言った。「重藤先生、この本を図書室に寄贈しようと思いますが、いけませんか」

      f:id:napdan325:20191230053438j:plain