緒永廣康 「ソメチメス」(sometimes)61

41.ただその四十分の為だけに(「告別演奏會顛末記」その後)(23)

 

 「それで、お葬式には行ったの」ヒナコがクマにそう尋ねた。梅雨明けは未だ正式に

は伝えられていなかったが、午後の校舎の屋上には心地良い風が流れ、遠く駒沢給水塔

の青いドーム状の屋根がやけにくっきりと浮かび上がって見えた。

 「いやそれが、なんでもごく内輪で済ませたみたいでチャコも行ってないんだ」

 「そう、でも何だかクマさん、仁昌寺先生が亡くなってから元気が無いみたい」 

 「そうかな、そりゃあ知っている人が死んでしまうのは、やっぱり気が滅入るよ。未

 だそんなに経験がある訳じゃないけど、歳取ったらそんな事も当たり前になるのか

 な。当たり前になりたくもないけどね」

 「そうねえ」ヒナコはそう言うと後の言葉を探すように空を見上げた。

 「もうじき夏休みだね、去年の今頃は文化祭の演劇の練習ばかりやってたけど、随分

 昔の事みたいだ」クマも空を見上げてそう言った。

 「父帰る、でしょ。私あれ見てない。何してたのかなあ、その時」

 「あれは結構観客が多かった。もっともこの学校の文化祭で演劇の出し物は少ないか

 らね」

 「劇は準備や何だかんだ手間がかかって大変だから、誰もやりたがらない。でもクマ

 さんが一人で二年四組を纏め上げてやり切った、その実行力は凄いってメガネユキコ

 さんがいつも言ってる」

 「そんな事もないよ。最近特に自分は何も出来ないじゃないかと思う事が沢山ある」

 「どうして」

 「僕はね、今まであまり挫折って、したことがないんだ。大成功とまで言えなくて

 も、そこそこの成果は常に挙げられる・・・。そんな風に考えて来たんだ。でもその

 為には人に対しては随分気を使ってきた心算だし、ある意味考え過ぎな位にね。でも

 偶に、本当に偶になんだけど、信じられないようなミスを犯してしまう事がある。

 相手が自分に賛同してくれてると勝手に思い込んだり、特に何も言わなくても十分理

 解されていると勘違いしたり、それでいて言わなくてもいいような何気ない一言を言

 ってしまったりとか・・・。そしてそのせいで一瞬にして一番大切に思っていたもの

 をみすみす失くしてしまったり。何だか、僕って信じられない位バカみたいだな」

 「そんな事ないよ、少なくも私やムーは幸せにしてもらってるし、みんなクマさんの

 事が好きだよ」

 「何故なんだろう、そこにその愛とか恋だとか普通ではない特別な感情が入ってくる

 と、突然物事を冷静に判断出来なくなって必ず間違った事をしでかすんだ。そしてそ

 の間違いは殆ど致命的で取り返しがつかないような影響を与えてしまう」

 クマはそれだけ言うと少し困ったような顔をして黙った。するとヒナコはいきなりク

 マの頬にキスした。クマが驚いてヒナコの顔を見ると、彼女は照れ臭そうに呟いた。

 「ナッパさんじゃなくてゴメンネ、でも私、誰にでもこんな事はしないよ」

クマはそれには答えず頷き、少し間を置いて言った。

 「もっとバカな話をしようか。僕がナッパと付き合い始めた時、どんな事を考えてい

 たと思う。僕はもう音楽なんか止めてしまって、勉強に精を出し、いい大学に入って

 いい会社に就職して、そうやってナッパと幸せな家庭を築く事を真剣に考えたんだ。

 全く笑っちゃうよね」

 ヒナコはただ黙って首を横に振った。

 「ところがね、あっという間に振られてしまって。それで今度はもうありふれた幸せ

 になんか背を向けて音楽だけに生きようなんて、全く逆方向に方針を変えたりするん

 だ。それってどう思う」

 「クマさんは考え過ぎなのよ。そんなに突き詰めなくても物事はなるようになるもの

 よ」

 「ケル、ケッサラか」

 「えっ、ドリス・デイの歌」

 「いや、それはケセラセラ。そうじゃなくてサンレモ音楽祭ホセ・フェリシアーノ

 が歌った方」

 「あっ、知ってる。越路吹雪が歌ってた」

  「そうそう、越路吹雪と言えば "イカルスの星" はいいよね」

 「えー、クマさんってそんなのも聴くの。それとももしかして宝塚ファンだったりし

 て」 

 「いやあ、宝塚ファンはアグリーの母上がそうだけど」

 「ふうん、そうなんだ。アグリーどんのお父さんは警察なんでしょ」

 「うん、あのあさま山荘があと二、三日延びていたら現地に行く事になっていたみた

 い」

取り留めの無い会話を止める者は誰も居なかった。そしてクマは『何故、ナッパとは

こんな風にフランクに話せなかったのだろう』と改めて考えていた。

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