緒永廣康 「ソメチメス」(sometimes)57

37.ただその四十分の為だけに(「告別演奏會顛末記」その後)(19)

 

 結局、アメリカのニクソン大統領は辞任し、軍用ヘリコプターに乗ってホワイトハウ

スから姿を消した。極東の日本にそのニュースが報じられた頃、東京は漸く鬱陶しい

梅雨空が晴れて、次第に日差しが強くなって来た。そしてヒナコさんグループは週に1

度の練習を欠かさず続けていたが、レパートリーは相変わらずヒナコとムーのオリジナ

ル2曲のままで、それなりに仕上がっていたものの練習は今一つ盛り上がりに欠けて

いた。

 そんなある日、ムーが練習場所に発売間もないアイワのラジカセを持ってやってき

た。「これを聴いて貰いたいんですけど」彼女は少し恥ずかしそう言うとプレイボタン

を押した。ムーの男言葉は次第に無くなりつつあるようだった。直ぐにピアノの音がし

て歌が始まった。どうやら新しいオリジナルらしい。

 それは掴みどころの無い不思議な曲だった。一度聴いただけでは理解出来ない。もし

かしたら大傑作か、それともとんでもない駄作か。演奏が終わった時、誰も何も言わな

い。少し間を置いて漸くクマが口を開いた「もう一回聴かせてくれる」

 再びテープが回り始め、まるでインドの行者が瞑想を行っているかのよう時間が訪

れ、3分強が過ぎ、回転が止まると、今度はアグリーが言った。「渋いんじゃない」

 それを受けてクマも頷いた。「難しい曲だね。でもとてもいい、何と言うか、凄く個

性的。まるでデイビッド・クロスビーのデジャ・ヴみたいだ」

 その曲を知っているアグリーは『その通り』と言わんがばかりにうんうんと首を振り

ながら手を叩き、同意であることを示したが、聞いた事の無いムーとヒナコはそれこそ

狐につままれたようにキョトンとしていた。

 それを見てクマは説明しようと考えて二、三言葉を探した結果、多分理解して貰えな

いと思い直し、笑顔を浮かべただけだった。そして全く関係の無いことを言った。「キ

ーはCmかな。でもカポは使いたくないな」

「どうして」ヒナコが聞く。

「だって、カッコ悪いじゃない」

クマは何時の頃からか、ギターにカポタストを付ける事を極端に嫌うようになってい

た。それは折角楽器が持っている音域を自ら放棄するような行為、そう言えば恰好良過

ぎ、実際はただ単に面倒なだけだった。

「これ、コンサートでやれますか」ムーは心配そうな顔をしてクマを覗くように訊ね

た。

クマは「うん」とだけ答えて暫く宙を見つめた。そして漸く答えた。「このテープ貸し

てくれる」

 

 クマは家に帰ると早速テープを取り出しカセットデッキにセットしてプレイボタンを

押した。

ヘッドフォンの中で流れる曲は相変わらず摩訶不思議な旋律だった。『これをどうギタ

ーで伴奏し、コンサートで演奏するのか』クマは目を閉じたまま自分の眉間に皺が寄っ

ているのを認識していた。

 三度目の再生が終わった時、突然クマの脳裏にある言葉が蘇った。しかもそれは数時

間前自分が発した言葉だった。『まるでデイビッド・クロスビーのデジャ・ヴみたい

だ』

 『そうだ、その通り。デジャ・ヴに使われているチューニングを使えばいいのだ』

それはクロスビーがよく用いるEBDGADという変則チューニングで、それを使った「グ

ィネヴィア」という曲をクマやアグリーは3月の2-4フェアウェル・コンサートで演

奏していた。

 しかし、これでプレイするとキーはEmになって、オリジナルのCmから大幅に上がっ

てしまう。後はムーの音域に頼るしかなかったが、こと音楽に関してクマは全く相手を

思いやる優しさは欠落していた。そしてライブに充分対応出来るようアレンジを仕上げ

たのは、それから3時間後の事だった。

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