緒永廣康 「ソメチメス」(sometimes)56

36.ただその四十分の為だけに(「告別演奏會顛末記」その後)(18)

 

  6月に入って鬱陶しい梅雨空が続いた。そして下旬から本格的に降り始めた雨は、

月が替わると台風8号の影響を受け、全国に甚大な被害を与えた。クマ達が住む世田

谷、目黒付近も一級河川多摩川や、彼等が通う都立深沢高校の傍を流れる呑川流域

に、多数の床上浸水が起きたが、幸い仲間の家は全て被災を免れた。

 月末にはアメリカ合衆国で国を揺るがす重大事件が発生。新聞やテレビはそのニュー

ス一色に染まり、連日特集記事や番組を報道し続けていたが、クマは一体何が起きて、

何が問題なのかよく理解出来なかった。

ウォーターゲートって何んなんだ」彼は先だって病院の受付で味をしめた、「とに

かく質問」という手段を試してみようと、廊下で会ったアグリーに聞いてみたが、彼も

また内容を把握しておらず、全く見当外れな「鉛の兵隊とニクソンがやって来た」とニ

ール・ヤングの”オハイオ” という曲の歌詞を呟いた後、「それより、コンサートで何や

るんだよ」と逆に質問する始末だった。

「うん、ムーの ”ぎやまんの箱” と、ヒナコの ”さようなら通り過ぎる夏よ” は決まって

るよね」そのクマの言葉にアグリーは黙って頷いた。

「それで、要はどれだけの時間というか、何分間、我々が貰えるかなんだけど、30分

ならやれるのはせいぜい5曲か6曲だよね。そうすると後4、5曲用意すればいいって

事になる。ここ迄はいいかな」

それに対してもアグリーは黙って頷く。

「それで、あの2曲はどっちもスローなんで、メリハリ付けるにはやっぱし速いのが欲

しいんだよね。それで考えたんだけど、一曲目はアータの”観覧車”を持ってくるのはど

う。A面トップだよ」 A面トップ、それはプロのミュージシャン達が発表するアルバ

ム、即ちLPレコードに於いて、最も重要な一曲目の事を言う。特に様々なレコードを聴

き漁っているアグリーは、有名なアルバムの様々な出だしを検討し、彼等がいつの日に

か世に問うであろうファーストアルバムのコンセプトばかり模索していた。

「あー、なるほど。でもチャンランシャを生ギターでやるんかあ」

「観覧車」は前年12月、アグリー、センヌキ、クマの三人でエレキギターを使い録音

したアグリーのオリジナルで、サビの部分が4拍子から3拍子に変わる、なかなかキャ

ッチーな曲だった。

「イエス。アレンジも考えた。変則Eオープンでやる、”青い目のジュディー"と同じ」

「はー、いきなり変則」、ともすればポップス色を失いかねない変則チューニングに、

アグリーは難色を示す。

しかし、何かと技巧に走りがちなクマの頭の中では、もう既にEBEEBEにチューニング

されたギターの音が鳴り始め、意識はまた別の世界へ行こうとしていた。「大丈夫、任

せてチョーダイ」まるで財津一郎のようなウラ声でクマが言った。

そこへ、たまたまセンヌキが通りかかった。「オタクら、歌は決まったの」

「ああ、今その話をしてたとこ。クマが”観覧車”を変則チューニングでやるって」

「えー、またー」

「そうだろー、そう思うだろー」

それを聞いて身の危険を察知したのか、急遽異次元から戻ったクマが、右の人差し指を

車のワイパーのように左右に振りながら言った。

「君達は何も解っていない」

 

 そんなやり取りがあって間もなく、「ヒナコさんグループ」が顔を揃え本格的練習を

開始した。

練習は基本的に週二回、場所は主に放課後の教室であったが、天気のよい日は校舎の屋

上に上がったりもした。

 「先ずは決まっている”ぎやまん”と”夏よ”を仕上よう」クマの号令の下、三人でチュー

ニングを合わせる。とにかくクマは徹底的に合わないと気が済まない性分で、微かな音

の揺らぎにも神経を尖らせた。440Hzの音叉を膝で叩き、ギターのトップに当てると

Aの音が出る。それに5弦の5フレットのハーモニクスを共鳴させると、音の違いが明

確に判る。クマもうこれを5年間もやってきた。そうやって合わせた5弦の音を基準

に残り全ての弦を合わせ、それが終わるともう一度同じ事を繰り返す。そして各弦をチ

ョーキングで引っ張りまた調律を確認。大した時間ではないが、周囲の者をウンザリさ

せるには十分だった。

「そろそろやる」クマの言葉に三人共やれやれという顔で溜息をつくしかなかったが、

アグリーとムーは必要に迫られて自分のギターをクマの音に合わせた。

 ”ぎやまんの箱”はムーが作った典型的なスローバラードのフォークソングだった。も

し、このバンドに参加していなければクマもアグリーも決して演奏するような曲ではな

かったが、今更そんな事は言えず、何よりクマは自分が持っている音楽的知識と技術の

全てをここに注ぎ込むと決めた以上、後戻りは出来なかった。

「三番まであるから徐々に盛り上げて行きたいんだけど、普通に考えれば2番まではア

ルペジオ、三番で一気にストロークってとこかな。他にはギター3本の内どれかにカポ

とか」クマは大雑把に自分の考えを述べた。

それに対しアグリーが答える。

「俺、ザクロッジのメンバーから12弦を借りてくるよ。そうすれば音も広がるし」

「オッケー、それはいいかも」

「ぼくは何をすればいい」ムーが口を開く。

実際のところクマはムーのギターを全く頼りにはしていなかった。それでも面と向かっ

てそうは言えないので、あまり伴奏の邪魔にならないよう間奏での簡単なソロを任せる

事にした。

 続くヒナコの”さようなら通り過ぎる夏よ”、この曲についてクマは既にプランを持っ

ていた。それは以前アグリーの”星の妖精”という曲で実証済みのギターアンサンブルを

使う事であり、具体的にはオーソドックス・チューニングのギターにDチューニングを

したギターを合わせ、そうする事により音域を広げきらびやかな響きが期待出来た。

「後は、新曲を幾つか揃える必要があるな」クマは自問して頷いた。

 

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