緒永廣康 「ソメチメス」(sometimes)53

33.ただその四十分の為だけに(「告別演奏會顛末記」その後)(15)

 

 「クマさん、こんにちは」特に待ちわびていた訳ではないが、顔を上げるとそこには

チャコが立っていた。

「今度、世田谷区民会館に出るんですって」それを聞いてクマは、少し目を大きく開き

『どうして知ってるの』という顔をした。

「あっ、私、八組の文化祭準備委員なの、だから "ヒナコさんグループ" のメンバーは誰

がいて、区民会館の出演申請をしたって事も知ってるわけ」

「なるほど、それで申請は承認しないぞと脅しに来たわけ」

「なんでそんな風に考えるかなあ、私はそんなに意地悪じゃないわ。ちゃんと承認する

方に手を挙げました」

「それはどうもありがとうございます。で、今日はどのようなご用件でしょうか。あっ

それと、この間のS&Gの感想文、随分立派な論文でした」

「どういたしまして。あの、クマさん」突然チャコはあらたまった声になった。

「なんでしょうか」クマもそれにつられた。

「真面目な話だけど、図書室の仁昌寺先生、知ってる」クマは一瞬顔をこわばらせて、

そして頷いた。

「あの、誰からの情報って聞かないで欲しいんだけど」クマはまた頷く。

「しばらく休んでいるの先生」

「それは知らなかった。このところ図書室に行ってないんだ」

「そう、仁昌寺先生、入院しているの。それでどうもあまり良くないみたい。癌だとい

う話」それを聞いたクマは、今度は眉間に深く皺を寄せた。

「でも一ヶ月位前会った時は、そんな感じは全然無かったけど」

クマは図書室での彼女の言葉を思い出していた。それは人と人との会話は、それぞれ互

いに自分が作り出した相手の虚像に向かって語り掛けているというものだった。最初に

それを聞いた時、クマは何となく違和感を感じたが、後になって考えると至極当然の事

のように思えてきた。何故なら人は誰しも相手の反応を予想しながら言葉を発し、時に

は想定外の対応に戸惑い、狼狽し、突如陥った局面を挽回しようと更にその虚像に問い

かけるのからである。

『しかし、仁昌寺という司書教諭は、何故自分にそんな事を言ったのだろう。彼女が作

り出したクマという人間の虚像は、そのような言葉を欲しているように見えたのだろう

か。そしてそれが、あながち見当違いではなかったのは何故なのだろうか』クマは突

然、それを確かめたい衝動にかられた。

クマはチャコに聞いた。「ところでチャコさんは、どうしてそんなに仁昌寺先生につい

て詳しいの」

「だから情報源は言えないの。ただ私が中学生の時、大学生だった仁昌寺先生が私の家

庭教師をしていたの。この学校に転校を決めたのも彼女がここにいたから」

「ふうん」とクマは呟き、これまでの話をもう一度自分で確認するかのように、二、三

度頷いた。

「先生の入院先は知ってる」

「ええ、国立第二病院」

「近いね。そこの目黒通りを真っ直ぐ行って、駒沢公園の横の自由通り沿いにある」

「よく知っているわね」

「小学六年の時、肺炎で10日位入院した事があって、毎日朝晩ペニシリンを腕に注射

されて、あれは痛かった」それまで尻にするものと思っていたペニシリン注射を、腕に

する理由をクマは医者から聞き逃していた。

「チャコさん」クマは更にあらたまって言った。「チャコさん、先生を見舞いに行こう

と思うんだけど、大丈夫かな」

「多分そう言うと思った。大丈夫よ」

「どうしてそう言うと思ったの」

「先生がそう言ったから」チャコは謎めいた微笑みを浮かべクマを見た。そしてこう付

け加えた。「私も一緒に行っていい」

 

 翌日、クマは正門前の自転車置き場でチャコと待ち合わせた。その日は、本来であれ

ば「ヒナコさんグループ」の第一回目の練習が予定されていたが、クマは見舞いの方を

優先し、メンバー各人には事情を説明して、三人だけでやるか若しくは順延を申し出て

いた。勿論三人とも承諾で、日を改めることになった。ただその時、ヒナコだけはチャ

コの名前を聞くと、少し眉をひそめた。

 病院の面会時間は午後三時からだった。クマはその日も午後の授業は無く、チャコも

偶然同じだった。

「お待たせしました」午後1時ちょうどにチャコが校舎から出てきた。

「今日、文化祭準備委員があるんだけど、サボちゃった」彼女は悪戯っぽく笑みを浮か

べ肩をすくめた。

「昼ご飯は食べたの」

「ええ、母が作ったお弁当。クマさんは」

「僕はパンを買って済ませた」

「面会時間は3時からだけど、少し早いし、どうする。ぶらぶら歩いて行って駒沢公園

で時間を潰すのはダメ」

「全然」早めに目的地付近まで行くことはクマが日頃行っている行為だった。

そして二人は歩き始めた。

「クマさんは何処に住んでるの」

三軒茶屋。チャコさんは」

「都立大、というか柿の木坂」

「歌に出て来る所」

「えっ、いえ、あれは違うみたい。だって国鉄の目黒駅だって、三里もないもの。でも

何処の事を歌っているのかは知らない。クマさんって歌謡曲も聞くの」

「いや、でも歌くらいは知ってる。確かに ”柿木坂は駅まで三里" って歌ってるね。多分

田舎なのかな」クマは妙に納得した顔になった。

「ねえナッパちゃんの話、していい」

「いや、今はね。いつかどこかで、もし話する機会があったら」

「そう、そうね。そうしましょ。でもひとつだけ聞いて」

「何」

「彼女はクマさんの事、本当に好きだったの。それでもっと色々な事を話したかった

の。クマさんだったら自分の事を解って貰えると思っていたの」

「それで僕がナッパさんの期待を裏切ったんだ」

「違う、そうじゃない、その逆よ。彼女がクマさんの事、誤解しちゃたの。彼女はクマ

さんを傷つけてしまったってすごく後悔しているの」

クマは少し難しい顔をして黙って歩いた。そして日体大の角を左に曲がり、深沢不動の

交差点までを見下ろした。

『僕らもこの坂を下るように、ゆっくりと歩いて行けたら良かったのだ。そう、まるで

熟練したパイロットが、全く機体を揺らすことなく高度を下げてゆくように』

 

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