緒永廣康 「ソメチメス」(sometimes)49

29.ただその四十分の為だけに(「告別演奏會顛末記」その後)(11)

 

 ヒナコは迷っていた。確かに歌を歌うことは子供の頃から好きであったし、また得意

であると自覚もしていた。どんな曲でも二三回聴けば覚えられ、音を外すことも無かっ

た。そして体を声に共鳴させ、より深く響かせると、得も言われぬ恍惚感に浸ることが

出来た。人には内緒にしていたが、それはまるで体の敏感な部分を刺激して得られる快

感にも似ていた。それでもヒナコには迷っている事があった。

 彼女は「コッキーポップ」という深夜に放送されるラジオ番組を、毎晩欠かさず聴い

ていた。そこでは、未だあまり有名ではない音楽を志す若者たちが、作曲や歌唱でリス

ナーからのリクエスト数を獲得することにより、番組制作者であるヤマハポプコン

そして世界歌謡祭出場を目指すことが競われていた。彼等の最終目標は勿論グランプリ

を受賞する事であり、前回の受賞者は大ヒットになった「あなた」を歌った小坂明子

った。

 ヒナコはその歌をラジオで紹介された時からいい曲だと思い、何度も声に出して歌っ

ていた。そして別のクラスであるにも関わらず、図々しく出演することになった2年4

組フェアウェル・コンサートでもそれを歌おうと考えたが、相棒のムーからナッパがそ

の曲を候補にしていると聞き、一応立場を考え遠慮したのであった。勿論、彼女は他の

誰よりも上手く歌う自信はあったが。

 そしてそのムーは、ヒナコ持ち前の全方位外交ならではの情報収集力から、ようやく

探し当てた相棒だった。歌に比べ伴奏のギターがあまり上手ではないヒナコにとって、

ムーの演奏力は欠かせないものであり、ムーにとってもヒナコは本気で音楽を語り合え

る貴重な同志となっていたのだった。

 彼女達二人は、百名以上の犠牲者を出した熊本大洋デパートの火災からまだ日も浅い

1973年12月にコンビを結成、それ以降毎週土曜日、互いの家を行き来して練習を

続けていた。そこで演奏されていたのは、コッキーポップで聞いた「そんなあなたが」

浅田美代子の「赤い風船」、そしてまたムーが作ったオリジナル曲で、当面の目標は

当初クマ達からムーだけに声がかかっていた2年4組フェアウェル・コンサートに二人

で出演することだった。

 それは、このコンビとして初めて人前で歌うチャンスであり、またコンサートの模様

は録音されるという非常に魅力的な情報も流れていた。二人は相応の準備をしてこれに

臨み満足する結果を得た。それはクマやアグリーをして「コンサートの主役を乗っ取ら

れた」と言わしめた程の出来栄えであった。

 しかし、ヒナコにとってこのコンサートでの一番の収穫は、初めてクマとアグリーを

知ったことだった。彼等二人は今まで聞いた事のないアコースティックギターの演奏

を、これ見よがしにひけらかし、アグリーがストロークで刻むリズムに、クマがつま弾

くリードのフレーズが、目を見張るように格好良く感じられた。また、恐らく通常のチ

ューニングではない神秘的なサウンドにも心惹かれた。それは勿論彼女があまり洋楽に

興味が無かったせいでもあるが、これまで上手いと思っていたムーのギターも色あせて

見える程強く印象付けたことだけは確かだった。

 ところでヒナコは少し前から高校生活の記念になるような事がしたいと考えていた。

それは具体的に何をという訳ではないが、取敢えずは音楽絡みの事になるであろう事は

予測がついた。

そんなある日、ヒナコは一二年でクラスメイトだったトクコと廊下で立ち話をした。ト

クコは一年生の時から男子同級生二人とグループを組みピーター、ポール&マリーのコ

ピーをして歌を歌っていた。そして彼女達は毎年文化祭になると初日だけ行われる世田

谷区民会館での催しに出演していたのだった。その事について聞くと今年も出るつもり

だと言う。

その時はそのままそこで話は終わったが、後になってヒナコはその言葉に自分もそのス

テージに立つことを思いついた。もともと彼女はプロの歌手になるなどという考えは毛

頭なく、高校卒業後どこか短大へ行き、そのうち結婚して子供を儲け平凡に暮らしてゆ

くという、ごくありふれた幸せを望んでいた。そんな彼女にとって世田谷区民会館のス

テージは格好の機会であり、思い出作りには打って付けの場所でもあった。

 彼女は早速相棒のムーに相談した。ところが以外な事にその反応はあまり芳しくなか

った。反対こそしないものの、ムーは自分の技量を冷静に判断できる人間で、強力な助

っ人が必要との意見を述べた。唯、もうあまり時間は残っていない。ヒナコがクマとア

グリーの演奏力を思い出したのはある意味当然と言えば当然であったのだ。

 そして受験勉強に没頭していたクマも、なんとか参加を了承し胸を撫で降ろしたのも

束の間、ヒナコは大きな問題がある事に気づいた。高校最期の文化祭、しかも世田谷区

民会館のステージで一体何を歌えばいいのか。彼女の迷いはその一点に絞られていた。

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