緒永廣康 「ソメチメス」(sometimes)46

26.ただその四十分の為だけに(「告別演奏會顛末記」その後)(8)

 

 「クマくん」若い女性司書教諭はそう声を掛けると、直ぐに「あなたに悪いニュース

があります」と、外国映画の台詞を直訳したかのような表現で続けた。しかし、それを

聞いたクマは別に嫌な気はせず、それどころか随分洒落た言い方をするな、とさえ思っ

た。

「言わなくても解ると思うけど、君をここに置いておく訳にはいきません」

その言葉にクマは心外という表情を浮かべて、殊更大袈裟に両手を広げ、ゆっくりと

首を横に振る。それこそまるで洋画の俳優がそうするみたいに。

「私は伝えるべき事は伝えました、本件に関し君に拒否権はありません。直ちに三年一

組の教室に戻り、現国の授業を受けて下さい」

『この芝居がかった言葉使いは、多分誰かが作ったルールなのだ。だからこの世界では

誰もがそのルールを守らなければならない、役者が与えられた台本に従うように』

「オーケー、ボス・・・」そう答えたところでクマは目が覚めた。『夢だったのか』

 時計を見ると午後三時。そこはホリゾントライトに照らされた舞台の上ではなく、窓

の外から五月の暖かな日差しが注ぐ図書室の中だった。

そしてクマは周囲を見回し、まるで一人取り残された難民のように、ぽつんと座ってい

る自分に気づいたのだ。

 『少なくともその夢を見ていた間、悲しい現実を忘れることが出来た』クマはそう思

った。目覚めと共に否応なしに蘇ったあの悪夢のような衝撃的な事実。それを突き付け

られてから、未だ一日も経っていない。『そう、確かにナッパは去ってしまった』そう

考えると、自分が人影の無い夕暮れの街はずれを、行く当ても頼る物も無く、後悔と不

安に心を削り取られながら、一人放心したように歩いている感覚に捕らわれてしまう。

クマは窓の外を眺め、雲の切れ間から差し込む光の帯を探した。しかし朝から五月晴れ

の空は午後になってもそのまま続いており、雲一つ見当たらなかった。

『光の帯の空間転送装置は一人分の能力しかないのか』

そう考えているうちにクマの脳裏には、ナッパと二人で通り過ぎてきた日々の、輝いて

見える部分だけが次々と浮かび、気が付くと涙が止めどなく流れ始めた。 そして、

いつ、どこで、誰が、何を、どう、間違えたのか。またそれは何故なのか。クマは泣き

ながら五つのWと一つのHを指を折って確認していた。クマはそんな事をしている自分

が哀れでもあり、また可笑しくも愛おしくもあるのだった。

 「どうかしましたか」知らぬ間にクマの横には司書教諭が立っており、怪訝そうな顔

をしてそう訊ねた。

「先生」クマは今まで一度も口をきいた事のない彼女に対し、思わず自分でも予期せぬ

言葉を発した。

「先生は取り返しのつかない出来事を経験した事はありますか」

「・・・それは何度もあると思うけど。例えば歳を取ったりとか」

「いいえ、そんなのではなくて、何て言うのか、そう、言わなくてもよかった事を言っ

てしまったりとか」

「・・・今こうして会話をしているけれど、私は私が作り上げた君と話していると思

うの。こう言えば君がどう反応するか、君の隣に作ったもう一人の君の顔色をうかがい

ながら、次の言葉を探しているの。だから、どれだけ言葉を尽くしても、それは想像の

領域のコミュニケーションでしかない。でも私達は切れば血の出る現実に生きている

・・・言っている意味が解る」

部屋の中に、内容とは裏腹な司書教諭の屈託のない声が響いた。

「多分、判る、と、思います」クマは考えながら答えた。

「だったらオーケー。失恋でもしたの、人を好きになるのは理屈じゃないわ。大抵は一

瞬の気の迷いか、大いなる勘違い。まあ若いんだから元気を出しなさい。月並みな言葉

だけれど」

「先生は恋愛に恨みでもあるんですか」クマは思わず笑顔で言った。

「そんな事はないけど、でも些細な言葉の行き違いで壊れてしまうような繋がりなら、

元々大した事が無い証拠。そんな関係なら幾らでも転がっている。それで相手が本当は

何を考えているかなんて誰にも判る筈がない。だって自分で自分の事さえ判らないんだ

から。君は完全に自分自身を把握していると思う。人は誰でも、決して日の当たらない

月の裏側みたいな部分を持って生きているって、私はそう思うけど」

クマがまだその言葉の意味を頭の中で整理している間に、彼女はもう一言付け加えた。

「まあ、でも嘘はダメね。特に直ぐバレる嘘は。今日の午後、授業は無いと言うのは最

低。取り返しのつかない出来事を経験した事って、今日君を見逃してしまった事かも知

れない」

 彼女は笑っていたしクマも仕方なく笑うしかなかった。この台本のルールに従って。

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