緒永廣康 「ソメチメス」(sometimes)45

25.ただその四十分の為だけに(「告別演奏會顛末記」その後)(7)

 

 昼休みが終了し五時限目の授業開始のチャイムが鳴り始めても、クマは図書室から出

ようとはせず、机の上のレポート用紙の束を前に座ったままだ。昨夜から殆ど一睡も

出来なかったせいで、彼の両眼は陽光に輝く雪面をサングラス無しで過ごした時のよう

に、真っ赤に充血していた。それでも卒業に必要な最低限の授業しか選択していない彼

は、取敢えず登校する事が、気を紛らわす唯一の方法だと思っていた。

 しかし週明けの月曜日、彼は必修科目である現代国語Ⅲの授業を自主休講してまで、

気になる忌々しいその文字の羅列を読む方を選んだのだった。

  図書室に他の生徒は誰もおらず、若い女性の司書教諭がクマのところへやって来て

「授業はどうしたの」と尋ねた。「今日は何もないので自習しています」クマがそう答

えると、彼女は学年、クラス、氏名を聴取し手帳に書き込んだ。『後で職員室で調べら

れるとマズイ事になるかも』とクマは考えたが、日頃問題行動を起こしている訳ではな

いし、たとえバレても然したる支障は無い。それが彼の出した結論だった。そして今、

ここに来る前に起きた出来事を、もう一度順序立てて思い返してみた。

 

 二時限目と三時限目の間のやや長い休み時間の事、クマが次の授業、英文法の教科書

を見直していると、目の前に人が立っている気配がする。

「こんにちは」どこかで聞いたような声にクマは顔を上げた。そこには何とチャコが

いた。

「クマさん、こんにちは」チャコはいたって朗らかに言った。彼女は前回とは違い眼鏡

をかけており、それは意外と似合って理知的にさえ見えた。

「こんにちは、演劇部の話は上手く進んでる」クマは大切なものを失くし、心に吹き荒

ぶ嵐を感じられないよう、出来るだけクールに応えた。

「いいえ、あれはもう諦めて今日は別の用事で来ました」彼女はそう言うと抱えていた

紙の手提げからⅬP盤二枚を取り出して見せた。それはクマがナッパに貸していたサイモ

ン&ガーファンクルの「パセリ・セージ・ローズマリー・アンド・タイム」と「ブック

エンド」というアルバムだった。

 「説明するとややっこしいんですが」チャコは相手が当惑する事を見越していたかの

ように言った。

「手短にお願いします」クマの声は明らかに不快感を帯びている。

「私、ナッパちゃんと中学で同じクラスだったんです。それでこの間、彼女に会ったら

このレコードを持っているので、どうしたのって聞いたらクマさんから借りていたのを

返さなくてはいけない、と言うので私に貸してと頼んだら、ダメ自分が返した後、頼め

ばいいじゃないと言うし、それなら私からクマさんにこれを持って行って、直接話すっ

て無理やり盗ってきたんです」

「何も聞いてないけど」クマはボッソっと言った。

チャコはそれに構わず「私、それで他にも色々聞いちゃった。あっ、私と彼女って昔か

ら結構仲がいいんです、家も近所だし」と続けた。

『これは本当にややこしい事になるかも』とクマは思った。

 チャコは一頻り言いたいことを言うとレコードを置いて帰って行き、クマは手提げ袋

の中を覗いて、分厚い封筒が一通入っているのを見つけた。そして、それがナッパから

の手紙なのかどうか確認しようとした時、三時限目の授業が始まってしまったのだ。

 三年になってからクマは教室中央の最前列の席を自分で選択しており、流石に教員の

目を気を考えればその封書を取り出す訳にはいかない。

そんな彼に、後ろに座っている女子が、教員の目を盗んでクマの肩を叩いた。見るとレ

ポート用紙を折りたたみ、表にクマさんへと書かれたメガネユキコからのメモだった。

彼女は以前から時折授業中に走り書きの手紙をよこすことがあった。

「憂うつそうな顔をしてますね。さっきチャコが来てたみたいだけど、何かありました

か」

クマは教員が黒板の方を向いた時、斜め後ろを振り返るとメガネユキコと目が合ったの

で、『大丈夫』という表情を作ってみせた。

 四時限目、クマは教室移動に時間を取られ、分厚い封書は手付かずのままであった。

そして、午前中の授業が終了すると、メガネユキコが話があると言ってきたので、ヒナ

コと三人、誰にも聞かれないで済むよう中庭にベンチに移動した。どうやら全方位外交

のヒナコが短い休み時間を使い情報収集してきたようだった。

 チャコに関する情報は、以前いきなり演劇部を作ろうと言いに来て以降、何ももたら

されていなかった為、今回の彼女の話は初めて聞くものばかりであったが、クマにとっ

て唯一無二の存在だったナッパが離れてしまった今となっては、それは特段興味を引く

ものでは無かった。

 チャコはナッパと同じ小学校に通い中学二年と三年で同級生となり、高校は私立大学

の付属校に進学したが、何らかの理由で二年生の三学期に深沢高校に編入して来たらし

く、それがクマ達がその存在を全く認識していなかった理由だと思われた。

 クマが取敢えずヒナコに礼を言うと、メガネユキコがためらいがちに「ナッパちゃん

と何かあったの」と訊ねた。

「いや、ちょっと」クマが少し眉をひそめるとメガネユキコは「いえいえ、別にいいん

だけど」と言って、二度と同じ質問はしなかった。

 

 クマは漸く分厚い封筒を開いた。中身はナッパからの手紙ではなく、予想だにしな

いチャコが書いたクマの行動分析とレコードの感想文だった。『なんなんだ、これは』

クマは失望とも安堵とも、そして怒りともつかない不思議な感覚に捕らわれていた。

 

 前略

実を言うと、ナッパさんからこのレコードを強引に受け取った後、直ぐには返さず自宅

で聞いてみました。先ず思ったのは、何故この二枚なのかという事です。サイモンと

ガーファンクルと言えば、普通、誰でも「明日に架ける橋」だと考えるのに、どうして

なんでしょうか。私の答えは、先ずクマさんがマニアであるという事。そしてそれを

ナッパさんに誇示したいと思っている事。自分の趣味を相手に伝え、そこから新たな関

係を展開しようという発想です。でもいきなりこれを貸された方とすれば、かなり面

喰ってしまうと思います。事前にもっと会話をするべきだったのではないでしょうか。

 『だった・・・。何故、過去形なのか。これは一体いつ書かれたものなのか』クマは未

だ延々と続く文字列の前に、一人立ち盡すしか術は無かった。

 

 そろそろいつもの仲間から、救いの手が差し伸べられてもよい頃合いだった。

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