緒永廣康 「ソメチメス」(sometimes)43

23.ただその四十分の為だけに(「告別演奏會顛末記」その後)(5)

 

 アグリーとヒナコを振り切って校舎を出たものの、クマは深沢八丁目のバス停に続く

いつもの桜並木を歩きながら、また考え事をしていた。

 そんな彼とは逆方向に歩く若い女性の集団が、声高に会話をしながらすれ違った。上

下ジャージをいい加減に着用し、運動靴はかかとを履きつぶしている。彼女等は深沢高

校に隣接する女子寮から目と鼻の先にある大学へ向かう学生で、クマ達はそのだらしな

い服装を、彼女達の学校名から日体スタイルと呼んで半ば馬鹿にしていた。日体はその

名の通り日本体育大学のことである。

 しかしその日クマは、彼女等には全く目をくれることは無かった。

 

 二人が乗ったバスは各駅停車だった。それはクマにとって重要な問題である。何故な

らこのバスはナッパの家がある三宿に停まる為、クマはその手前の三軒茶屋で一人で降

りなければならない。仮にこれが急行であったならば、ナッパが三軒茶屋で一緒に降り

ることとなり、その後の二人に大きく影響を及ぼす。即ちバスを降車後、何らかの展開

が起きる可能性が残されるという事だった。従ってこの状況下、ナッパとの親密な時間

を更に延長する為には、クマは三軒茶屋に着く前に、彼女に対して勇気を振り絞り自分

の意志を示す必要があったのだ。

 冷房の効いた車内で吊革につかまり並んで立っていると、それまでクマに視線のやり

場を困らせていたナッパの透けた赤い水玉のシャツも、汗の乾きと共に正常に戻って行

き、それはそれで彼を惜しい気持ちにさせていた。

 そんな事は全くお構いなくバスはだらだら坂を登って行き、もうじき駒沢という時、

クマとナッパは殆ど同時に、「あの・・・」と言いかけ、彼は彼女にその先を譲った。

するとナッパは少し恥ずかし気に、しかしはっきりと「駒沢に美味しいあんみつ屋さん

があるの。もし良かったら、これから一緒に行かない」と天使のような声で誘ったの

だった。『なんと、彼女も同じ事を考えていたのか』クマの心拍数は上がり、気が付く

と不覚にも少し勃起をしていた。

 彼は以前からそのあんみつ屋の噂は聞いていた。それは学級委員をしているメガネユ

キコが時々音頭を取り女生徒だけで集まって、井戸端会議をしているという話で、それ

が彼女が皆から安美津子と呼ばれている所以でもあった。

 勿論クマはナッパと一緒なら異存などあろう筈は無く、今度は自分の下半身の異変に

対するナッパの視線を気にしながら、大きく頷いて「うんうん、いいですよ」と上ずっ

た声で答えた。それは思いの外、車内に大きく響き、数名の乗客が自分達の方に顔を向

けるのを見たナッパは、声を殺して下を向き肩を震わせている。

『僕たちは恋人同士に見えるのかな、そしてそんな風に思う感覚って、何て素敵な事だ

ろう』

 車窓から少し賑やかな景色が見え始めた時、運転手が次の停車駅が駒沢であることを

告げた。クマは待ちかねたように降車のボタンを押してナッパに微笑みかける。そして

彼女はそれを確認すると他の乗客には悟られないよう、いわくありげに眼だけで笑顔を

作った。まるでこれから二人で銀行強盗に行くみたいに。

 国道246号線もこの辺りまで来ると、二年前に開通した首都高速三号線が空を覆

い、真夏の日差しを遮っている。店は通り沿いのあんみつ屋のイメージとは程遠い近代

的なビルの二階にあり、二人は窓際の席に案内された。 

「来年の今頃は受験で真っ青になっているかな」

「何処を受けるの、大丈夫よ」

店員が注文を取りに来てナッパは迷わずあんみつ、クマは迷った挙句コーラフロートを

頼んだ。

「まだ決めてないけど、国立は無理だし」

「どうして」

「数学が全然ダメだし、化学も物理も。僕は数字や記号が出て来ると、ぞっとしちゃ

う」

「でも、英語は出来るでしょう、それに現国や古典も」

「出来るって程じゃあないよ」

「そう、この間の英語のテストで100点じゃなかったって、クマさんが悔しがってい

たってメガネユキコさんが言ってたわ」

ナッパの声はクマを慰めるように優しかった。しかしクマは彼女が心配する程、受験を

を気にしていない。ただ少し彼女に同情して貰おうと気の弱い振りをしただけなのだ。

そして今こうして二人だけの時間を過ごす事がこの上もない幸せに思え、たとえ何浪

しようとも、彼女さえいてくれれば、それだけでいいと確信していた。  

 

【依存】他のものをたよりとして存在すること。「親に ー した暮らし」(広辞苑第六

版)

『自分は常に何かに依存している』歩きながらクマはそう考えた。これまでの十八年

間、勿論自らの力だけで生きてきた訳ではなかった。だが、それは自分に限ったことで

はなく、彼の周囲の者も同様である。

『しかし』とクマは思う。

『しかし、自分は他の人に比べ、何かに頼り切ってしまうことが多いのではないの

か』

彼は更に考える。『その何かとは何か。ある時は家族であり、また友人、知人であ

り、時によってそれは人では無く、言葉、文章、書物。或いは旋律、ハーモニー、そし

て中学一年の頃より心を捉えて離さないギター演奏であったりもした』

 そして彼はふとある歌を口ずさむ。

     All my plans have fallen through 

     All my plans depend on you

     Depend on you to help them grow

     I love you and that's all I know

「All I Know」というタイトルが何故か「友に捧げる歌」という意味不明な邦題になっ

アート・ガーファンクルの歌を口ずさみながら、クマは決して見返りを求めず一方的

な温情を注いでくれた両親と姉のことを思い、そして『今、正気を保ちつつ曲がりなり

にも生きて行けるのは、新たな第三者、ナッパという存在があるからに違いない』と確

信するのだった。

 もし、そうでなければクマは、世田谷区民会館のステージという魅力的な誘いに賛同

しない筈がない。

彼はそこで、最近あまりナッパに連絡をとっていないことにふと気づき、明日にでも三

階の八組へ行ってみようと決めたのだった。

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アート・ガーファンクル:オール・アイ・ノウ

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