緒永廣康 「ソメチメス」(sometimes)42

22.ただその四十分の為だけに(「告別演奏會顛末記」その後)(4)

 

 「い、や、だ。くどいよ。何でもいいからオレを巻き込まないでくれる」クマはいつ

になく声を荒げた。

 五月下旬、デューク・エリントン死去の報が世界中を駆け巡っている頃、ジャズとは

殆ど縁の無い、それでもミュージシャンのつもりのクマとアグリー二人は、三年一組と

二組の間の廊下に立って暫く話し込んでいた。

 その少し前、クマが帰ろうとしているとヒナコがやってきて「ねえクマさん、アグ

リーどんが話があるって」と伝えた。

何となく嫌な予感がしたクマだったが、三年になってから出来た数少ないクラスメート

の一人、ヒナコの言うことを聞き、脱色ジーンズで出来たバッグを肩にかけ廊下へ出

た。

「待ってて」ひとこと言うと全方位外交のヒナコは、何のためらいもなく二組の教室に

入り事も無げにアグリーを連れて出てきた。

 「それで、なに」クマが面倒くさそうに口を開く。通常彼は言葉には一応気を使って

いたが、アグリー等親しい間柄の者には結構ぞんざいな言い方をする。

「ああ、相談事があるんだけど・・・」

「めんどうな話はごめんだよ」そう念をおしたクマは、想像以上に面倒な話を聞くこと

になったのである。

 

 「演劇の事、随分詳しいのね。」ナッパがそう聞いた。

「そんなことないよ。僕の姉が高校の時、演劇部にいてね、それで少し教えて貰った

だけ」汗で下着が透けて見える彼女の胸に、ともすれば行きそうな視線を逸らし、クマ

は答えた。

「ふうん、そうなの。メイクアップも」

「うん、そう」

「去年のクリスマス・キャロルの時、メガネユキコさんにしてあげたでしょう」彼女は

いたずらっぽく少し笑った。そして、「私にはしてくれなかったのね」と呟いた。

彼女もマーサという役で出演者の一人だった。

クマには彼女の真意が図り知れなかった。前回一緒に帰った時は、バスの中で一言も口

を聞かなかったのに、今日は妙に思わせぶりな事を言う。

 バスが来た。定期券を運転手に見せ、前扉から乗る。席は空いてなかった。

「私ね、夢を見るのが好きなの。朝起きたらすぐ、その夜見た夢をノートに書いておく

の」彼女は吊革につかまって、ナッパは流れ去る外の景色を見ながら、唐突にそう言っ

た。その大きな瞳は美しく輝いている。

「それでね、夢で見た事が、後になって実際に起きるの」

『おいおい、オカルト紛いな話題は勘弁してくれ』とクマは思いつつ、少し前に買った

G.フロイトの「夢判断」を読んでおけば良かったと後悔し、彼女に明解な解答、と言う

よりも知ったかぶりが出来ない自分を恨んだ。そして彼女の会話がいつも脈絡がなく支

離滅裂である事を不思議に思うのだった。

『確かに彼女は考えもつかないような事を突然、口にする癖があるように見えるが、そ

れが本性なのか、どちらかというと饒舌ではない自分への思いやりで、思いつくまま話

しかけて来るのかは不明だ』

 

 アグリーの言う相談事とは十月末にある文化祭にヒナコとムー、二人と一緒に出演し

ようというものであった。

「はあっ」と思わず驚いてクマがヒナコを見ると、肩をすぼめてニヤッとしている。そ

の表情から彼女が最初からクマに頼むと即座に断られると踏んで、先ずは御しやすい

アグリーを引き込み、クマを説得しようとの魂胆である事を理解するのは容易であっ

た。

 「なんで」クマは言った。「ギター要員が必要ならムーとアグリー二人いればそれで

十分じゃない。まあライブなんだから、そんなに難しい事をするんじゃなくて、スト

ロークならストローク、フィンガーならフィンガー、リズムだけしっかり押さえて基本

的なプレーをキッチリすれば、それで十分格好がつくと思うけど」

クマの言うことは2-4フェアウェル・コンサートの苦い経験に裏打ちされたもので、

特にアグリーに対して説得力があった。

 「ううん、ムーは自分じゃあ無理って言っているし、やっぱりギター2本欲しいし」

ヒナコが初めて会話に参加した。

「だったらセンヌキでいいじゃない」

「いや、アレンジとか考えると、やっぱクマがいなきゃ始まんないよ」すがる様な目を

してアグリーが言った。クマは『一体何やろうと思ってるの』と言おうとして、それを

言うと興味を持ったと勘違いされそうなので、「オレのギターを貸してやるから、それ

で勘弁してくれよ」と首を横に振りながら妥協案を提示した。

「ギターならもうセンヌキから借りることにしてるんだ」

「やっぱりね」何故、クマはやっぱりと言ったのか。彼等の根底にあるのは、憧れの

スーパースター達の模倣であり、ステージに何本ギターを並べるかが重要な問題であっ

た。相変わらず音楽の本質でミュージシャンしている訳では無かったのだ。

 しばらく沈黙の後、突然アグリーが落語家のような口調になった。

「しかし何だねえ、ところでクマさん」

「へえ、何です、ご隠居。とでも言うと思ったか、冗談じゃない。もう懲り懲りなの」

「でも世田谷区民会館だよ。あのマルケヴィッチが日本フィルを指揮して録音した」

 アグリーが言うように、本職のオーケストラが世田谷区民会館をレコーディングに

使った事をクマも知っていた。そして彼等が通う東京都立深沢高校は、毎年文化祭の初

日をそこで行っていたのである。『そんなに音響がいいのだろうか』クマは小学校時

代、そこで世田谷区主催の作文コンクールに出品し表彰状を受け取っていた事を思い出

していた。そして、ふとそのステージにアグリー達がいるのを客席から見るのは、少し

寂しいかも知れないなと一瞬考えたが、直ぐに気を取り直した。

「クラッシックには興味無し、何度言われても答えはノー、ニヒトだ」

そう言うとクマはアグリーとヒナコに背を向けて歩き始め、振り向きもせず手を振っ

た。

 「やっぱりダメかなあ」アグリーを見上げてヒナコが呟くと、「大丈夫だ、奴はきっ

とやるさ。マグロが泳がなければ死んでしまうみたいに」アグリーは意味不明な例えを

出して胸を叩いた。

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