緒永廣康 「ソメチメス」(sometimes)41

21.ただその四十分の為だけに(「告別演奏會顛末記」その後)(3)

 「クマさーん、お客さーん」 三年でもまた同じクラスになったメガネユキコが、彼ら

の部屋、三年一組の出入り口からそう呼んだ。クマが何事かと訝しがりながらそこまで

行くと、全く知らない女生徒が立っている。

 「あの、私、三年七組のチャコと言います。あなたが演劇に興味を持ってるって聞い

たので、演劇部を作ろうと思って来ました。一緒にやりませんか」 メガネ越しに真面目

そうな眼差しでクマを見つめその子が口を開いた。

 「・・・」思いもよらない提案にクマは一瞬言葉を失ったが、せっかく三階から一階

まで訪ねてくれた見知らぬ少女が、もう少し可愛ければ良かったのになどと邪念を抱き

ながらも、相手が傷つかないよう慎重に言葉を探した。彼をそうさせる何かが脳裏をよ

ぎったからだ。
 

 四月の初め、学校は春休みで彼等二人は月並みに渋谷のハチ公前で待ち合わせをし

た。それは、二年間同じクラスであった四組の最期を飾る合宿が終了し、渋谷からの

帰路でクマがナッパを誘った初めてのデートだった。彼らは「公園通り」と呼ばれる大

通りを抜け、代々木のオリンピックプールを通り過ぎて明治神宮に着いた。

 参道の砂利道に人影は疎らで、二人は恐ろしく退屈な話ばかりしながら歩いた。

「この道も正月参賀日は人がいっぱいで動けないんだ。それでも家の親父が行こうと

言って聞かないものだから、毎年その度に喧嘩。それなのに今日ナッパさんをここに

誘ったのも、おかしな話だね」

 彼女はその言葉に少し微笑んだ。本堂の前には正月とは打って変わったように控えめ

な賽銭箱が置いてあり、二人は並んで二礼二拍一礼した。彼は本気で二人の関係がこの

まま続くようにと祈った。ところがそのあと菖蒲苑の方に回り池の畔のベンチに腰を下

すと、クマの願いとは裏腹に二人は早くも口論になった。

「・・・だから僕はね、もし僕がこうすれば、こんな事を言えば、相手が喜ぶだろうっ

て分かっている時でも、敢えてそんな事をしようと思わない。そういうのは何か見せか

けの白々しい優しさみたいで大嫌いだな」

「そうかしら。私はそうは思わない、私はやっぱり人の為に何かしてあげたいわ。人間

には思いやりが必要よ」日頃とは違い彼女は意外な程、強い口調で答えた。

「でも仮に、人を思いやることで自分が疲れるとしたら、自分を殺す事で、人に尽くす

としたら、それは誠意とは言えないじゃないかと思うけど」

「そうかも知れないわ」

「だから僕は人に対して優しくあるよりも、誠実でありたいと思うんだ」

「でもそれは、あなた自身に対しては誠実であっても、相手の人に誠実であるとは限ら

ないでしょう。たとえ自分の本心はそうでなくても、人を思いやるのが本当に優しい人

ではないかしら」

「そうかな、それは見せかけの優しさだと思うよ。自分を偽るということは、裏を返せ

ば相手を欺いてる事になるんじゃないか。確かに、よく女の子は、どういう男性が好き

とか聞かれると、大概は優しくてユーモアのある人って答えるけれど、そしてその優し

さというのが、相手の喜ぶ事をしてあげる事ならば、僕は全然優しい人間じゃないね」

しばし小休止があった。

「いいえ、あなたはやっぱり優しい人だわ」彼女は殆ど自分に言い聞かせるように小さ

く呟いた。


 「あのー、折角の提案なんだけど・・・、ちょっと難しいかな。受験もあるし・・・

確かに演劇に興味が無い訳じゃないけれど・・・、悪いんだけどお断りします」クマは

漸くそこまで言い終えてチャコと名乗る女生徒の目を見た。

「今すぐに結論を出さなくても、一週間後にまた来てもいいですか」

「いや、その必要は無いと思います。あなたの夢が叶うことを陰ながらお祈りします」

クマはそう言って少し微笑んでみせた。『これが精いっぱいの優しさかな』

 彼女は落胆を隠そうともしないで立ち去った。すかさずメガネユキコとヒナコが寄っ

てきて話の内容を尋ねた。

「もうあんな事に情熱なんか湧かないし、いまさら夕方以降、学校にいる気はしない。

その為に部活もやっていないし、アグリーともギターを弾いていない。だいたいもう新

年度は始まっているんで、今更予算がつく筈が無い。どうやって活動するつもりなんだ

ろう、ちょっと考えが甘いんだよね。そう思わない。でもどうして今頃演劇の話がくる

のかな」クマは本心を明かしながら、これがもしナッパからの申し出であったらどう対

応したのだろうかと考えた。

 メガネユキコは「そりゃあそうよね、そう言ってあげれば良かったのに。演劇の話は

二年四組が四散して、クマさんの事を誰かが流したせい、情報の広がる速度は今日は国

内、明日は世界よ」といつも通りの適切なたとえで答え、ヒナコは少し難しい顔をして

「でもねぇ」とだけ独り言のように呟いた。その呟きの理由をクマは間もなく知ること

になる。

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