緒永廣康 「ソメチメス」(sometimes)40
20.ただその四十分の為だけに(「告別演奏會顛末記」その後)(2)
そして1974年4月、部員数わずか11名の池田高校野球部が、春の甲子園で準優
勝した事を称賛する余韻がまだ残る頃、クマはたった一人で新たな戦いを始めていた。
高校3年になって遅れ馳せながら大学受験に目覚めた彼は、卒業に必要な必修科目と
単位数を取得する受業のみ選択し、それにより生じる自由裁量の時間を自宅での勉強に
あてる事とした。この大胆な決定は音楽仲間であったアグリーやセンヌキを始め周囲の
者たちを驚かせたが、因数分解くらいでしか得点が望めない数学と早く縁を切りたいと
切望していたクマにとっては、当然の結論であった。
とにかく現役で大学に合格すること、それがクマが自分に課した目標だったが、勿論
大学ならば何処でも良いという訳ではない。そこまで割り切るならば、受験勉強などせ
ずとも行けるところは幾らでもある。しかし、そのような進学を親が認めてくれる筈が
無い事は明白であり、嘲笑されない程度の見栄えのいい大学生になる為に、クマは少し
でも偏差値を上げる必要があったのだ。
「それにしても」、彼はふと考える、「何故自分はそんなに現役に拘るのか」。親の
経済的負担を軽減する、とは聞こえがいいが、そんな事はこれっぽっちも考えていな
い。
彼にとって大学の存在理由とは、何の楽しみも無い社会人になる前に与えられる執行猶
予。漂流した十五人の少年達の二年間とは違い、四年間大人としての権利は享受するも
のの好きな事が出来て、それでいてある程度身分は保証される。それを手に入れる為
に、ただでさえ息が詰まりそうな現在の生活の延長線を、更に延ばす心算は毛頭なかっ
たのである。
そうやって授業を最小限に削った結果、どうしても避けられない現国と英語 (文法) が
ある月曜と木曜以外、午前中で彼にとっての学校は終了し、その日も夜に備え眠る為に
食事も摂らず昼過ぎには校門を出て、これまで幾つものドラマがあった深沢八丁目のバ
ス停まで続く桜並木を歩いていた。
殆ど人通りの無いの道を一人歩きながら、「ところで、この通りに名前はついている
のだろうか」とクマはいつものようにあまり意味の無いことを考えながら、ふと時間を
遡った。
「劇、大丈夫かしら」ナッパは額の汗を拭きながら言った。1973年、夏休みも間
近な7月の初めのとても暑い日だった。彼女は赤い水玉模様のシャツにジーパンをはい
ていた。9月末にある文化祭で、彼等のクラスの出し物は演劇、菊池寛の「父帰る」
だった。1年生の時も同じメンバーのクラスで、ディケンズの「クリスマス・キャロ
ル」を上演したが、手分けして作った脚本がメチャクチャだったせいもあり、劇自体纏
まりを欠けたとの反省を踏まえ、2年になって最初から戯曲を選んだのである。ただ題
名は「蕩父だって帰ってくる」というこの物語の原題に変更していた。
クマは何故か文化祭と言えば演劇と決めていて、クラスの責任者になると多数の反対
を抑え込んで一部の賛同者と実行までこぎつけたのだった。
「多分上手くいくと思うよ。割と皆乗って来たから。」彼は答えた。
「そうね、今日の練習、前よりも一段と熱がこもっていたみたい。ダンディー君の賢一
郎、少し怖かったんだもん。」そう言ってナッパは思い出し笑いをした。
彼女もクマが無理やり引き込んだ文化祭の責任者の一人だった。
真夏の太陽は容赦なく照り付け、二人は学校からバス停へ続く、桜並木を歩いて行っ
た。彼女は何度も汗を拭い、薄手のシャツから下着がくっきりと透けて見えていた。
バス停まではまだ距離がある。思い出を辿るには十分な時間だ。クマはふと遠ざかる
校舎を振り返り、ナッパは今どうしているのだろうと考えていた。