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緒永廣康 「ソメチメス」(sometimes)8

8.めもらんだむ 1.

 その日、僕は一通の手紙を受け取った。差出人の署名は無かったが、その筆跡に僕は

誰からの物であるか了解した。-今更手紙なんてーしかし、僕は長い間それを、待って

いたような気がした。

 あれは何時の事だったろう。高校を卒業して駿河台にある私立大学に入学したばかり

の頃だったかも知れない。もう2年も前の事だ。僕は毎週のように彼女に手紙を書い

た。しかし返事は一通も返ってこなかった。

 1973年、夏休みも間近な7月の初めのとても暑い日だった。彼女は赤い水玉模様の

シャツにジーパンをはいていた。その時、僕は彼女の事が好きだと改めて感じていた。

5年の月日は決して短くない。僕は封を切って手紙を取り出した。

 

 「劇、大丈夫かしら。」彼女は額の汗を拭きながら言った。9月にある文化祭で、

僕等のクラスの出し物は演劇で、菊池寛の「父帰る」だった。1年生の時も演劇で

ディケンズの「クリスマス・キャロル」をやったが、手分けして作った脚本がメチャ

クチャで、劇自体纏まりを欠けるものだった事を踏まえ、2年になって最初から戯曲

を選んだのだった。ただ題名は「蕩父だって帰ってくる」という原題に変更した。

 僕は何故か文化祭と言えば演劇と決めていて、クラスの責任者になると多数の反対

を抑え込んで一部の賛同者と実行までこぎつけたのだった。

「多分上手くいくと思うよ。割と皆乗って来たから。」僕は答えた。

「そうね、今日の練習、前よりも一段と熱がこもっていたみたい。内田君の賢一郎、

少し怖かったんだもん。」彼女も文化祭の責任者だった。

 真夏の太陽は容赦なく照り付け、二人は学校からバス停へ続く、長い坂道を歩いて

行った。彼女は何度も汗を拭い、薄手のシャツから下着がくっきりに透けて見えた。

「演劇の事、随分詳しいのね。」

「そんなことないよ。僕の姉が高校の時、演劇部にいてね、それで少し教えて貰った

だけ。」ともすれば、彼女の胸に行きそうな視線を逸らし、僕は答えた。

「メイクアップも?」

「うん、そう。」

「去年のクリスマス・キャロルの時、由紀子さんにはしてあげたでしょう。」彼女は

いたずらっぽく、少し笑った。そして、

「私にはしてくれなかったのね。」と呟いた。彼女も出演者の一人だった。

僕には彼女の真意が図りしれなかった。この間一緒に帰った時は、バスの中で一言も

口を聞かなかったのに、今日は妙に思わせぶりな事を言う。

 バスが来た。定期券を運転手に見せ、前扉から乗る。席は空いてなかった。

「私ね、夢を見るのが好きなの。朝起きたらすぐ、その夜見た夢をノートに書いておく

のよ。」彼女は吊革につかまって、流れ去る車窓の外を見ながらそう言った。その大き

な瞳は美しく輝いていた。

「それでね、夢で見た事が、後になって実際に起きるの。」

僕は少し前に買ったG.フロイトの「夢判断」を読んでおけば良かったと思いつつ、彼女

に明解な解答を出せない自分を恨んだ。そして彼女の話題がいつも支離滅裂である事を

不思議に思った。確かに彼女は思いもよらない事を突然、口にする癖があるように思え

たが、それがわざとなのか、どちらかというと饒舌ではない僕への思いやりなのかは

不明だった。

 

 「お元気ですか。突然手紙なんて、きっとびっくりしたことでしょう。考えてみたら

あなたに手紙を書くのは初めてのような気がします。今日この手紙を書いたのは、今更

と思われるかもしれませんが、一度会ってお話がしたいのです。御都合の良い日をお知

らせ下さい。私は何時でも構いません。」

ただ、それだけである。しかし僕はそれで充分な気がした。<続>