緒永廣康 「ソメチメス」(sometimes)5

5.現国のテスト「詩について」

 

 こうやって詩の事を改めて考え直してみると、全く訳が分からなくなってしまう。

それ程詩が生活に密着しているとは思わないが、詩との出会いが無ければ、今の僕

ではない僕になっていたに違いない。

 僕が学校で書かされる以外の詩を書き始めてから五年になる。その間に多くの言葉

がノートを埋めていったが、一つの完成品を残して僕はそれまでの詩、即ち詩人と

呼ばれるような人が書くみたいな詩を、止めてしまった。そして今は何の変哲もない

歌詞を書いている。何故止めたのかは判らないし、止めたと言うよりはむしろ書けなく

なってしまったのだ。一度は信じた詩が、今では単なる言葉の羅列でしかない。書かれ

た詩はどれも真実を語っていない。時間が考え方を変えてしまったのかも知れない。

そうすると多くの詩人と呼ばれる人達が発表した詩は、今では彼等(もう既に故人と

なった者も多いが)にとって意味が無いものではないだろうか。そして、それを読む

我々は、彼等の一時的な感動に浸っているに他ならない。しかも詩人達のすべてが、

一時的にせよ真実を語っているかさえ疑問である。生活の為、言葉を売らなければなら

ない者は、当然売れる事を意識するであろうし、売れるという事は大衆に迎合すること

にもつながる。また韻を踏んだりする為、彼等は彼等は敢えて自分をまげて、書くこと

さえあるはずだ。詩人は単なる売文家でしかなくなることを恐れ、様々な努力を行う

であろうが、それら自体が既に不自然な事であるから、「どうにもならない」という

事に変わりないと考える。

 詩人と呼ばれる人達は、何か普通の人ではないと思われがちだが、決してそうでは

ない。どのような人にも感動があり、それを言葉に上手く置き換えられるか、そうでは

ないかの違いなのである。そしてそれらの大半は訓練によって、得られるものに違い

ない。言葉を多く知っているという事も、その一つであろう。確かに詩人は我々の知ら

ない言葉をよく用いる。しかし、普通は使われないそれらが、本当に必要なものかどう

か疑わしい。敢えて人に判らないようにするのは、その詩人が未熟なせいである。ほん

の身の回りの言葉にも感動はあるはずなのだ。

 僕が見た感じ、詩人はある意味で甘やかされているのではないだろうか。よく詩が

書かれた記念碑などが建っている。そのあたりは風光明媚な場所が多く、人は自分で

言葉にする前にそれを読んで、「なるほど」と思ってしまうのである。そしてまるで

我が意をえたかのように人に伝えるのだ。有名な詩人達は素晴らしい、と信じこまされ

ていて、大して感銘も受けていないのに、解説等を読んで無理に感動してしまう人が

多いのではないか。

 多くの人は好きな詩の一つや二つはあって、暗唱しているものだが(現に僕もそう

だ)、その詩を理解しようと読み込んだ結果覚えたのか、唯単に暗唱出来るようになる

為そうしたのか、僕は後者の人が意外と多いのではないかと思う。また、常に思うこと

だが、詩の解説というものは、判る人には判るのだろうが、かえってその詩を堅苦しい

ものにし、その結果、余計に難解しているのではないだろうか、この詩に於けるレト

リックがなんだとか、ニヒリズムがどうだとか・・・。詩人の詩とはそれ程、多くの

意味を持つものだろうか。

 発表された詩は、その真意がどうであれ、評価される。それ自体間違っているのだ。

詩はそれを書いた人のものである。決して評価を受けるものではない。それを受ける

ということは、結局大衆に受入れ易いものと、そうでないものとを作ってしまう。

 詩を書き続ける者は、はたして自分が何をやっているのか知っているのだろうか。

詩人は手の内にある言葉を一つずつ失ってゆく。そのすべてを失くし、最後には書く

ことも語ることも拒否しなくてはならなくなるのではないだろうか。それが本当の詩人

とは言えないが、詩はその過程に生まれたものに過ぎない。だからこそ僕はそれが全て

とは思わないのだ。結局言える事はそれだけである。これからも、訳の分からないまま

詩を書き続けるかも知れないが、それに溺れてはならないのではないだろうか。

 最後に僕の好きな短い詩を書く。

    私の詩は三日の間もてばいい

    昨日と今日と明日と

    ただその形見であればいい

             三好達治

                             <終>1974年

 

     *     *     *     *     *

 

 高校2年の論文(?)試験。詩に対して批判的立場を取っているかのようだが、これ

はP.サイモンの「キャシーの歌」の歌詞にインスパイアされたものであると思う。

今読み返すと、論旨に矛盾や焦点が定まらない部分だらけで、ご異論も多々あること

と思うが、17歳の文章なのでご容赦願いたい。因みに評価は「木」であった。評価

についてはアーカイブにある「青春浪漫 告別演奏会顛末記7」をご参照いただければ

幸いである。2017年3月