緒永廣康 「ソメチメス」(sometimes)3

3.投影図

 

 県境の鉄橋を渡る電車の鈍い響きに、建付けの悪い下宿の窓が少し共振した。

ー  明日、僕ハ、コノ部屋ヲ出テ行ク。

荷造りの済んだ狭い部屋を見回して、彼は煙草に火を付けた。学生生活が終わった事、

そして明日から社会に出て行くことが、吐き出す煙の中に唯漠然と身じろぎしている

ようだった。

 彼は先程机を片付けている時に見つけた、明治神宮菖蒲園の入場券を手に取った。

色褪せたそれは高校時代の思い出だった。

ー  ソウ、友人ハ皆、物持チノイイ奴ダト僕ヲ笑ッテイタッケ。

それは四月の初め、学校は春休みで彼等二人は月並みに渋谷のハチ公前で待ち合わせ

をした。それから後に「公園通り」と呼ばれる大通りを抜け、代々木のオリンピック

プールを通り過ぎて神宮に着いた。

 参道の砂利道に人影は疎らで、二人は恐ろしく退屈な話ばかりしながら歩いた。

「この道も正月参賀日は人がいっぱいで動けないんだ。それでも家の親父が行こう

と言って聞かないものだから、毎年その度に喧嘩さ。それなのに君を今日ここに誘った

のも、おかしな話だね。」

彼女はその言葉に少し微笑んだ。本堂の前には正月とは打って変わったように控えめ

な賽銭箱が置いてあり、二人は並んで二礼二拍一礼した。彼は本気で二人の関係が

このまま続くようにと祈った。そのあと菖蒲園の方に回り池の畔のベンチに腰を下すと

二人は早くも口論した。

「…だから僕はね、もし僕がこうすれば、こんな事を言えば、相手が喜ぶだろうって

分かっている時でも、敢えてそんな事をしようと思わない。そういうのは何か見せかけ

の白々しい優しさみたいで大嫌いなんだ。」

「そうかしら。私はそうは思わない、私はやっぱり人の為に何かしてあげたいわ。人間

には思いやりが必要よ。」彼女は意外な程、強い口調で答えた。

「でも仮に、人を思いやることで自分が疲れるとしたら、自分を殺す事で、人に尽くす

としたら、それは誠意とは言えないだろう。」

「そうかも知れないわ。」

「だから僕は人に対して優しくあるよりも、誠実でありたいと思うんだ。」

「でもそれは、あなた自身に対しては誠実であっても、相手の人に誠実であるとは限ら

ないでしょう。たとえ自分の本心はそうでなくても、人を思いやるのが本当に優しい人

ではないかしら。」

「そうかな、それはそれは見せかけの優しさだと思うよ。自分を偽るということは、裏

を返せば相手を欺いてる事になるんじゃないか。よく女の子は、どういう男性が好き

とか聞かれると、大概は優しくてユーモアのある人って答えるだろ、そしてその優しさ

というのが、相手の喜ぶ事をしてあげる事ならば、僕は全然優しい人間じゃないね。」

しばし小休止があった。

「いいえ、あなたはやっぱり優しい人だわ。」彼女は殆ど自分に言い聞かせるように

小さく呟いた。

彼はこの件について、それ以上何も言わなかった。そして二人は白けた気分のまま渋谷

まで歩き、フランセで甘いウィンナーコーヒーを飲んだ。店内の若いカップルを見なが

ら、彼女は独り言のように、「あの人たち、どんな話をしているのかしら。」と言った。

彼は適当な言葉を見つけられないまま、苦笑いを浮かべて「さあ」と答えただけだっ

たが、心には棘のようなものが残った。

 彼女は一昨年前短大を卒業したはずであるが、今、何をしているのかは知らない。

もしかしたら既に結婚したかも知れない。そんな事を考えながら、恐らく彼女はもう

とっくに捨ててしまったであろう古びた菖蒲園の入場券を彼はちぎって捨てた。あの

日から半年後、『いつまでも続きますように』との願いも虚しく、二人は学校の廊下

で顔を合わせても、気まずくすれ違うようになっていた。

ー  初詣ニ行キ渋ッタオカゲデ、僕ニハ明治神宮ノ御利益ガ無カッタラシイ。

 彼は苦笑いを浮かべて、短くなった煙草をもみ消した。<終>1977年12月

 

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 この短文もアグリー著作となっている。本来はもっと長編だったが、彼の要求で

原稿用紙4枚迄との制約を受けた。尚、この物語は「告別演奏會顛末記」とはリンク

していない。2017年2月