緒永廣康 「ソメチメス」(sometimes)46

26.ただその四十分の為だけに(「告別演奏會顛末記」その後)(8)

 

 「クマくん」若い女性司書教諭はそう声を掛けると、直ぐに「あなたに悪いニュース

があります」と、外国映画の台詞を直訳したかのような表現で続けた。しかし、それを

聞いたクマは別に嫌な気はせず、それどころか随分洒落た言い方をするな、とさえ思っ

た。

「言わなくても解ると思うけど、君をここに置いておく訳にはいきません」

その言葉にクマは心外という表情を浮かべて、殊更大袈裟に両手を広げ、ゆっくりと

首を横に振る。それこそまるで洋画の俳優がそうするみたいに。

「私は伝えるべき事は伝えました、本件に関し君に拒否権はありません。直ちに三年一

組の教室に戻り、現国の授業を受けて下さい」

『この芝居がかった言葉使いは、多分誰かが作ったルールなのだ。だからこの世界では

誰もがそのルールを守らなければならない、役者が与えられた台本に従うように』

「オーケー、ボス・・・」そう答えたところでクマは目が覚めた。『夢だったのか』

 時計を見ると午後三時。そこはホリゾントライトに照らされた舞台の上ではなく、窓

の外から五月の暖かな日差しが注ぐ図書室の中だった。

そしてクマは周囲を見回し、まるで一人取り残された難民のように、ぽつんと座ってい

る自分に気づいたのだ。

 『少なくともその夢を見ていた間、悲しい現実を忘れることが出来た』クマはそう思

った。目覚めと共に否応なしに蘇ったあの悪夢のような衝撃的な事実。それを突き付け

られてから、未だ一日も経っていない。『そう、確かにナッパは去ってしまった』そう

考えると、自分が人影の無い夕暮れの街はずれを、行く当ても頼る物も無く、後悔と不

安に心を削り取られながら、一人放心したように歩いている感覚に捕らわれてしまう。

クマは窓の外を眺め、雲の切れ間から差し込む光の帯を探した。しかし朝から五月晴れ

の空は午後になってもそのまま続いており、雲一つ見当たらなかった。

『光の帯の空間転送装置は一人分の能力しかないのか』

そう考えているうちにクマの脳裏には、ナッパと二人で通り過ぎてきた日々の、輝いて

見える部分だけが次々と浮かび、気が付くと涙が止めどなく流れ始めた。 そして、

いつ、どこで、誰が、何を、どう、間違えたのか。またそれは何故なのか。クマは泣き

ながら五つのWと一つのHを指を折って確認していた。クマはそんな事をしている自分

が哀れでもあり、また可笑しくも愛おしくもあるのだった。

 「どうかしましたか」知らぬ間にクマの横には司書教諭が立っており、怪訝そうな顔

をしてそう訊ねた。

「先生」クマは今まで一度も口をきいた事のない彼女に対し、思わず自分でも予期せぬ

言葉を発した。

「先生は取り返しのつかない出来事を経験した事はありますか」

「・・・それは何度もあると思うけど。例えば歳を取ったりとか」

「いいえ、そんなのではなくて、何て言うのか、そう、言わなくてもよかった事を言っ

てしまったりとか」

「・・・今こうして会話をしているけれど、私は私が作り上げた君と話していると思

うの。こう言えば君がどう反応するか、君の隣に作ったもう一人の君の顔色をうかがい

ながら、次の言葉を探しているの。だから、どれだけ言葉を尽くしても、それは想像の

領域のコミュニケーションでしかない。でも私達は切れば血の出る現実に生きている

・・・言っている意味が解る」

部屋の中に、内容とは裏腹な司書教諭の屈託のない声が響いた。

「多分、判る、と、思います」クマは考えながら答えた。

「だったらオーケー。失恋でもしたの、人を好きになるのは理屈じゃないわ。大抵は一

瞬の気の迷いか、大いなる勘違い。まあ若いんだから元気を出しなさい。月並みな言葉

だけれど」

「先生は恋愛に恨みでもあるんですか」クマは思わず笑顔で言った。

「そんな事はないけど、でも些細な言葉の行き違いで壊れてしまうような繋がりなら、

元々大した事が無い証拠。そんな関係なら幾らでも転がっている。それで相手が本当は

何を考えているかなんて誰にも判る筈がない。だって自分で自分の事さえ判らないんだ

から。君は完全に自分自身を把握していると思う。人は誰でも、決して日の当たらない

月の裏側みたいな部分を持って生きているって、私はそう思うけど」

クマがまだその言葉の意味を頭の中で整理している間に、彼女はもう一言付け加えた。

「まあ、でも嘘はダメね。特に直ぐバレる嘘は。今日の午後、授業は無いと言うのは最

低。取り返しのつかない出来事を経験した事って、今日君を見逃してしまった事かも知

れない」

 彼女は笑っていたしクマも仕方なく笑うしかなかった。この台本のルールに従って。

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緒永廣康 「ソメチメス」(sometimes)45

25.ただその四十分の為だけに(「告別演奏會顛末記」その後)(7)

 

 昼休みが終了し五時限目の授業開始のチャイムが鳴り始めても、クマは図書室から出

ようとはせず、机の上のレポート用紙の束を前に座ったままだ。昨夜から殆ど一睡も

出来なかったせいで、彼の両眼は陽光に輝く雪面をサングラス無しで過ごした時のよう

に、真っ赤に充血していた。それでも卒業に必要な最低限の授業しか選択していない彼

は、取敢えず登校する事が、気を紛らわす唯一の方法だと思っていた。

 しかし週明けの月曜日、彼は必修科目である現代国語Ⅲの授業を自主休講してまで、

気になる忌々しいその文字の羅列を読む方を選んだのだった。

  図書室に他の生徒は誰もおらず、若い女性の司書教諭がクマのところへやって来て

「授業はどうしたの」と尋ねた。「今日は何もないので自習しています」クマがそう答

えると、彼女は学年、クラス、氏名を聴取し手帳に書き込んだ。『後で職員室で調べら

れるとマズイ事になるかも』とクマは考えたが、日頃問題行動を起こしている訳ではな

いし、たとえバレても然したる支障は無い。それが彼の出した結論だった。そして今、

ここに来る前に起きた出来事を、もう一度順序立てて思い返してみた。

 

 二時限目と三時限目の間のやや長い休み時間の事、クマが次の授業、英文法の教科書

を見直していると、目の前に人が立っている気配がする。

「こんにちは」どこかで聞いたような声にクマは顔を上げた。そこには何とチャコが

いた。

「クマさん、こんにちは」チャコはいたって朗らかに言った。彼女は前回とは違い眼鏡

をかけており、それは意外と似合って理知的にさえ見えた。

「こんにちは、演劇部の話は上手く進んでる」クマは大切なものを失くし、心に吹き荒

ぶ嵐を感じられないよう、出来るだけクールに応えた。

「いいえ、あれはもう諦めて今日は別の用事で来ました」彼女はそう言うと抱えていた

紙の手提げからⅬP盤二枚を取り出して見せた。それはクマがナッパに貸していたサイモ

ン&ガーファンクルの「パセリ・セージ・ローズマリー・アンド・タイム」と「ブック

エンド」というアルバムだった。

 「説明するとややっこしいんですが」チャコは相手が当惑する事を見越していたかの

ように言った。

「手短にお願いします」クマの声は明らかに不快感を帯びている。

「私、ナッパちゃんと中学で同じクラスだったんです。それでこの間、彼女に会ったら

このレコードを持っているので、どうしたのって聞いたらクマさんから借りていたのを

返さなくてはいけない、と言うので私に貸してと頼んだら、ダメ自分が返した後、頼め

ばいいじゃないと言うし、それなら私からクマさんにこれを持って行って、直接話すっ

て無理やり盗ってきたんです」

「何も聞いてないけど」クマはボッソっと言った。

チャコはそれに構わず「私、それで他にも色々聞いちゃった。あっ、私と彼女って昔か

ら結構仲がいいんです、家も近所だし」と続けた。

『これは本当にややこしい事になるかも』とクマは思った。

 チャコは一頻り言いたいことを言うとレコードを置いて帰って行き、クマは手提げ袋

の中を覗いて、分厚い封筒が一通入っているのを見つけた。そして、それがナッパから

の手紙なのかどうか確認しようとした時、三時限目の授業が始まってしまったのだ。

 三年になってからクマは教室中央の最前列の席を自分で選択しており、流石に教員の

目を気を考えればその封書を取り出す訳にはいかない。

そんな彼に、後ろに座っている女子が、教員の目を盗んでクマの肩を叩いた。見るとレ

ポート用紙を折りたたみ、表にクマさんへと書かれたメガネユキコからのメモだった。

彼女は以前から時折授業中に走り書きの手紙をよこすことがあった。

「憂うつそうな顔をしてますね。さっきチャコが来てたみたいだけど、何かありました

か」

クマは教員が黒板の方を向いた時、斜め後ろを振り返るとメガネユキコと目が合ったの

で、『大丈夫』という表情を作ってみせた。

 四時限目、クマは教室移動に時間を取られ、分厚い封書は手付かずのままであった。

そして、午前中の授業が終了すると、メガネユキコが話があると言ってきたので、ヒナ

コと三人、誰にも聞かれないで済むよう中庭にベンチに移動した。どうやら全方位外交

のヒナコが短い休み時間を使い情報収集してきたようだった。

 チャコに関する情報は、以前いきなり演劇部を作ろうと言いに来て以降、何ももたら

されていなかった為、今回の彼女の話は初めて聞くものばかりであったが、クマにとっ

て唯一無二の存在だったナッパが離れてしまった今となっては、それは特段興味を引く

ものでは無かった。

 チャコはナッパと同じ小学校に通い中学二年と三年で同級生となり、高校は私立大学

の付属校に進学したが、何らかの理由で二年生の三学期に深沢高校に編入して来たらし

く、それがクマ達がその存在を全く認識していなかった理由だと思われた。

 クマが取敢えずヒナコに礼を言うと、メガネユキコがためらいがちに「ナッパちゃん

と何かあったの」と訊ねた。

「いや、ちょっと」クマが少し眉をひそめるとメガネユキコは「いえいえ、別にいいん

だけど」と言って、二度と同じ質問はしなかった。

 

 クマは漸く分厚い封筒を開いた。中身はナッパからの手紙ではなく、予想だにしな

いチャコが書いたクマの行動分析とレコードの感想文だった。『なんなんだ、これは』

クマは失望とも安堵とも、そして怒りともつかない不思議な感覚に捕らわれていた。

 

 前略

実を言うと、ナッパさんからこのレコードを強引に受け取った後、直ぐには返さず自宅

で聞いてみました。先ず思ったのは、何故この二枚なのかという事です。サイモンと

ガーファンクルと言えば、普通、誰でも「明日に架ける橋」だと考えるのに、どうして

なんでしょうか。私の答えは、先ずクマさんがマニアであるという事。そしてそれを

ナッパさんに誇示したいと思っている事。自分の趣味を相手に伝え、そこから新たな関

係を展開しようという発想です。でもいきなりこれを貸された方とすれば、かなり面

喰ってしまうと思います。事前にもっと会話をするべきだったのではないでしょうか。

 『だった・・・。何故、過去形なのか。これは一体いつ書かれたものなのか』クマは未

だ延々と続く文字列の前に、一人立ち盡すしか術は無かった。

 

 そろそろいつもの仲間から、救いの手が差し伸べられてもよい頃合いだった。

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緒永廣康 「ソメチメス」(sometimes)44

 24.ただその四十分の為だけに(「告別演奏會顛末記」その後)(6)

 

 まだ春休みだった四月初め、明治神宮での初デートで、二年間恋焦がれ続けたナッパ

といきなり口論をしてしまい、それ以来クマは少し冷却期間を置いていた。いや、その

表現は正しいとは言えない。彼は『自分は嫌われてしまったのではないか』という、考

えただけでも恐ろしい強迫観念にかられて日々悶々と過ごしていたのだ。

    『こんなことならばデートなどしなければ良かったかも知れない』そのような考えが

脳裏をかすめたが、それは間違った捉え方だった。確かに二年生の時の文化祭に関わる

一連の流れの中で、クマとナッパはかなりの時間を共有した。しかし、それは偶然同じ

高校に入学し同じクラスになっただけの関係以上のものではない。しかも三年では全く

違うクラスに選別され、放っておけばまた、単に顔と名前を知っている唯の同窓生に戻

ることは確実だった。そしてそれを回避すべく、起死回生を狙って無理やり立ち上げた

2-4フェアウェル・コンサートも淡々と終わってしまい、三月末のクラス合宿の帰り

道でデートに誘うことが、与えられた最期のチャンスだったのだ。

 『誰にも頼れない』クマは相変わらず依存体質から抜け切れずにいたが、アグリーや

センヌキ、またアガタやダンディーといった、かっての仲間達に今更泣きつく訳にもい

かず、女子の中で唯一人親しく付き合ってきたメガネユキコや、煮え切らないクマと

ナッパの間を取り持ってくれた、2-4インケングループのニッカやホナミに相談する

事も出来なかった。第一カッコ悪いし、折角の厚意を無にしてしまったようで、申し開

きのしようが無いと思った為である。

 とはいえ、押し潰されそうな不安から逃れる為には、その不安自体を払拭しなければ

ならない事は明白である。『さて、具体的に何をすればいいのか』しかしクマはまた必

要以上に考え込んでしまう。取り敢えずナッパと会って話す為、校舎を三階まで上がっ

て三年八組の教室を訪ねることを思いついたが、唐突過ぎるような気もして先ずは電話

か手紙かと。とにかく彼はこの手の問題に関しては極端に想像力を欠き、「傾向と対

策」は五里霧中、全く闇の中に閉ざされたままだった。

 

「あっ、魚が跳ねた」ナッパは洒落た内装のあんみつ屋の中央にある、少し大き目の水

槽の波紋を指して、さもそれが大事件のように叫んだ。『僕はいままで、どうでもいい

詰まらない事を騒ぎ立てる者は嫌いだったし、白々しい事を言う奴も嫌だった。しかし

ナッパは違う。彼女が殊更驚いた時や、分り切った事をくどくどと説明する時も、僕は

何故か素直にそれを受け止める事が出来る。当然の事ながら、確かに彼女は他の誰とも

異なるが、彼女は僕を優しい人間にしてくれる。彼女の存在があるというだけで僕は落

ち着き安らぐ。しかし彼女はどうだろうか。彼女は多くの物を僕に与えてくれるが、僕

が彼女に与える物は何も無い。そう何一つ・・・。僕はしかし、彼女に対し誠実であれ

ばいい。自分を偽らなければ、それでいい』

 これら殆ど妄想に近い発想は、すべてクマの恋するが故の相手に対する盲目と過大評

価が成せる業だった。

 

 クマは漸くあることに気づいた。『何故、僕はあんなに大切に想ってきたナッパに連

絡も取らず、一人で無駄に時間を過ごしてしまったのか。多分それは彼女から交際打切

りの最後通牒を突き付けられるのを、先延ばしして来ただけなのではないか』

思い返せば、彼女から受け入れられなかった時のことばかりを恐れ、自分の想いを打ち

明けられず、ナッパが自分ともっと親しくなりたいと思っている事を、ニッカとダン

ディーのラインを通じ伝え聞き、初めてデートに誘うのを決断した三月末と同じだっ

た。結局これら決断力の無さは彼女から否定された時、自分の存在価値が損なわれてし

まう、それがクマが最も恐れる事であった。

「The river can be hot or cold. and you should dive right into it.」(川が熱かろうが冷た

かろうが、お前さんは飛び込きゃならない)デイビッド・クロスビーは「ページ43」

という曲でそう歌っていた。そして、クマはついに決心したのだった。

 先ず電話の受話器を取り上げ大きく深呼吸をする。『まるで深沢うたたね団が2-4

フェアウェル・コンサートで歌った「恋のダイヤル6700」の歌詞みたいな心境だ』

彼は苦笑いを浮かべ、暗記してしまった番号を回す。そして呼び出し音が鳴り始めた。

『ああ、胃が痛む、心臓に悪い』

 クマの耳元でピーナッツ・コミックのビーグル犬が、世界的に有名な第一次世界大戦

パイロットに扮してこう呟いている、「こんな出撃の繰り返しが間違いなく彼をダメ

にしてしまうだろう」

 

 「私ね、本当は高校の間ずっと、男の子とこんな風に二人っきりで話すなんて絶対無

いと思っていたの」あんみつを食べながらナッパはそう言った。「学校で男の子がたむ

ろしていると、何だか怖いの。一人一人はそうでもないかも知れないけど。だから、こ

んな事初めてだから、何だかあがちゃった」

 店の窓からは西に傾き始めた太陽が、雲の切れ間を通して幾重にも長い光の帯を差掛

けているのが見えた。

「笑わない」彼女は既に自分で笑い出しそうになりながらクマに訊ねた。

「うん。でも何が」彼は何があっても笑わない準備をした。

「本当に笑わない。この間ニッカに話したら大声で笑われたの」

「約束するよ。僕は日本語を話すようになってから嘘をついたことは無い」

「あのね、あんな風に光の帯があると」ナッパは夢を見ているような瞳を窓の外に向け

そう言った。「あのうちの一本がすうっと伸びて来て、私を何処かへ連れて行ってしま

うっていつも考えるの。クマさんはそんな風に考えた事ない?」

クマは笑わなかったし、別に笑うような事ではないと思った。

『これは現実逃避願望か他力本願的冒険心か』

彼はそう考えたが、口には出さなかった。「そんな事考えたこともないよ、まるでかぐ

や姫みたいだね」それが回答だった。彼女は少し笑った。

「クマさんはいつも何を考えているの?」ナッパは水を一口飲んで聞いた。

「僕はね・・・。うん、何を考えているのかなあ。きっとろくでもない、取るに足りな

い事ばかりだと思うよ」実際クマはナッパの事以外、自分が何を考えているのかよく分

からなかった。

「何だか自己嫌悪になってるみたい」

「うん、そう・・・かな」クマはその時いっその事、実はずっと前から君の事が好き

だった、とナッパに言えばよかったと思いながら黙り込んでしまった。

彼女も暫く何も言わなかった。

 会話が途切れている間、クマの頭の中では、ポール・サイモンの「アメリカン・

チューン」という歌の一節が響いていた。

「Still, when I think of the road we're travelin' on, I wonder what's gone wrong. I can't

help it , I wonder what's gone wrong.」(それでもこれからの道のりを考えたら、僕は何

か間違っているのかな。解らないよ、違っているんだろうか)

「寒くない」ナッパは急に思い出したように、両手で肘を覆いながらそう言った。確か

に店の冷房は少し効き過ぎだった。クマは同意し席を立った。

 帰りのバスの中では、また文化祭の話で二人に取り留めの無い会話が戻った。クマが

先に降りる別れ際、ナッパは「今日はとっても楽しかった。どうもありがとう」と微笑

んで見せた。彼は『あれは社交辞令なのかな』と思った。

 

「もしもし」受話器を通して、クマが愛して止まないナッパのハイトーンの声が聞こえ

た。しかしそれから先の記憶を、彼は尽く失くしてしまった。唯、おぼろげながら新た

に認識した事がある、『悪い予感ほど良く当たる』

 ナッパは雲の切れ間から差し込んだ光の帯に乗って、クマを置き去りに何処か遠い所

に行こうとしているか、行ってしまったのだ。まるで殆ど休みなく飛び続けるジョナサ

ン・リヴィングストンのように。

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      *      *      *      *      *

 

クロスビー&ナッシュ:ページ43

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ポール・サイモンアメリカン・チューン 

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緒永廣康 「ソメチメス」(sometimes)43

23.ただその四十分の為だけに(「告別演奏會顛末記」その後)(5)

 

 アグリーとヒナコを振り切って校舎を出たものの、クマは深沢八丁目のバス停に続く

いつもの桜並木を歩きながら、また考え事をしていた。

 そんな彼とは逆方向に歩く若い女性の集団が、声高に会話をしながらすれ違った。上

下ジャージをいい加減に着用し、運動靴はかかとを履きつぶしている。彼女等は深沢高

校に隣接する女子寮から目と鼻の先にある大学へ向かう学生で、クマ達はそのだらしな

い服装を、彼女達の学校名から日体スタイルと呼んで半ば馬鹿にしていた。日体はその

名の通り日本体育大学のことである。

 しかしその日クマは、彼女等には全く目をくれることは無かった。

 

 二人が乗ったバスは各駅停車だった。それはクマにとって重要な問題である。何故な

らこのバスはナッパの家がある三宿に停まる為、クマはその手前の三軒茶屋で一人で降

りなければならない。仮にこれが急行であったならば、ナッパが三軒茶屋で一緒に降り

ることとなり、その後の二人に大きく影響を及ぼす。即ちバスを降車後、何らかの展開

が起きる可能性が残されるという事だった。従ってこの状況下、ナッパとの親密な時間

を更に延長する為には、クマは三軒茶屋に着く前に、彼女に対して勇気を振り絞り自分

の意志を示す必要があったのだ。

 冷房の効いた車内で吊革につかまり並んで立っていると、それまでクマに視線のやり

場を困らせていたナッパの透けた赤い水玉のシャツも、汗の乾きと共に正常に戻って行

き、それはそれで彼を惜しい気持ちにさせていた。

 そんな事は全くお構いなくバスはだらだら坂を登って行き、もうじき駒沢という時、

クマとナッパは殆ど同時に、「あの・・・」と言いかけ、彼は彼女にその先を譲った。

するとナッパは少し恥ずかし気に、しかしはっきりと「駒沢に美味しいあんみつ屋さん

があるの。もし良かったら、これから一緒に行かない」と天使のような声で誘ったの

だった。『なんと、彼女も同じ事を考えていたのか』クマの心拍数は上がり、気が付く

と不覚にも少し勃起をしていた。

 彼は以前からそのあんみつ屋の噂は聞いていた。それは学級委員をしているメガネユ

キコが時々音頭を取り女生徒だけで集まって、井戸端会議をしているという話で、それ

が彼女が皆から安美津子と呼ばれている所以でもあった。

 勿論クマはナッパと一緒なら異存などあろう筈は無く、今度は自分の下半身の異変に

対するナッパの視線を気にしながら、大きく頷いて「うんうん、いいですよ」と上ずっ

た声で答えた。それは思いの外、車内に大きく響き、数名の乗客が自分達の方に顔を向

けるのを見たナッパは、声を殺して下を向き肩を震わせている。

『僕たちは恋人同士に見えるのかな、そしてそんな風に思う感覚って、何て素敵な事だ

ろう』

 車窓から少し賑やかな景色が見え始めた時、運転手が次の停車駅が駒沢であることを

告げた。クマは待ちかねたように降車のボタンを押してナッパに微笑みかける。そして

彼女はそれを確認すると他の乗客には悟られないよう、いわくありげに眼だけで笑顔を

作った。まるでこれから二人で銀行強盗に行くみたいに。

 国道246号線もこの辺りまで来ると、二年前に開通した首都高速三号線が空を覆

い、真夏の日差しを遮っている。店は通り沿いのあんみつ屋のイメージとは程遠い近代

的なビルの二階にあり、二人は窓際の席に案内された。 

「来年の今頃は受験で真っ青になっているかな」

「何処を受けるの、大丈夫よ」

店員が注文を取りに来てナッパは迷わずあんみつ、クマは迷った挙句コーラフロートを

頼んだ。

「まだ決めてないけど、国立は無理だし」

「どうして」

「数学が全然ダメだし、化学も物理も。僕は数字や記号が出て来ると、ぞっとしちゃ

う」

「でも、英語は出来るでしょう、それに現国や古典も」

「出来るって程じゃあないよ」

「そう、この間の英語のテストで100点じゃなかったって、クマさんが悔しがってい

たってメガネユキコさんが言ってたわ」

ナッパの声はクマを慰めるように優しかった。しかしクマは彼女が心配する程、受験を

を気にしていない。ただ少し彼女に同情して貰おうと気の弱い振りをしただけなのだ。

そして今こうして二人だけの時間を過ごす事がこの上もない幸せに思え、たとえ何浪

しようとも、彼女さえいてくれれば、それだけでいいと確信していた。  

 

【依存】他のものをたよりとして存在すること。「親に ー した暮らし」(広辞苑第六

版)

『自分は常に何かに依存している』歩きながらクマはそう考えた。これまでの十八年

間、勿論自らの力だけで生きてきた訳ではなかった。だが、それは自分に限ったことで

はなく、彼の周囲の者も同様である。

『しかし』とクマは思う。

『しかし、自分は他の人に比べ、何かに頼り切ってしまうことが多いのではないの

か』

彼は更に考える。『その何かとは何か。ある時は家族であり、また友人、知人であ

り、時によってそれは人では無く、言葉、文章、書物。或いは旋律、ハーモニー、そし

て中学一年の頃より心を捉えて離さないギター演奏であったりもした』

 そして彼はふとある歌を口ずさむ。

     All my plans have fallen through 

     All my plans depend on you

     Depend on you to help them grow

     I love you and that's all I know

「All I Know」というタイトルが何故か「友に捧げる歌」という意味不明な邦題になっ

アート・ガーファンクルの歌を口ずさみながら、クマは決して見返りを求めず一方的

な温情を注いでくれた両親と姉のことを思い、そして『今、正気を保ちつつ曲がりなり

にも生きて行けるのは、新たな第三者、ナッパという存在があるからに違いない』と確

信するのだった。

 もし、そうでなければクマは、世田谷区民会館のステージという魅力的な誘いに賛同

しない筈がない。

彼はそこで、最近あまりナッパに連絡をとっていないことにふと気づき、明日にでも三

階の八組へ行ってみようと決めたのだった。

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      *      *      *      *      *

 

アート・ガーファンクル:オール・アイ・ノウ

www.youtube.com

緒永廣康 「ソメチメス」(sometimes)42

22.ただその四十分の為だけに(「告別演奏會顛末記」その後)(4)

 

 「い、や、だ。くどいよ。何でもいいからオレを巻き込まないでくれる」クマはいつ

になく声を荒げた。

 五月下旬、デューク・エリントン死去の報が世界中を駆け巡っている頃、ジャズとは

殆ど縁の無い、それでもミュージシャンのつもりのクマとアグリー二人は、三年一組と

二組の間の廊下に立って暫く話し込んでいた。

 その少し前、クマが帰ろうとしているとヒナコがやってきて「ねえクマさん、アグ

リーどんが話があるって」と伝えた。

何となく嫌な予感がしたクマだったが、三年になってから出来た数少ないクラスメート

の一人、ヒナコの言うことを聞き、脱色ジーンズで出来たバッグを肩にかけ廊下へ出

た。

「待ってて」ひとこと言うと全方位外交のヒナコは、何のためらいもなく二組の教室に

入り事も無げにアグリーを連れて出てきた。

 「それで、なに」クマが面倒くさそうに口を開く。通常彼は言葉には一応気を使って

いたが、アグリー等親しい間柄の者には結構ぞんざいな言い方をする。

「ああ、相談事があるんだけど・・・」

「めんどうな話はごめんだよ」そう念をおしたクマは、想像以上に面倒な話を聞くこと

になったのである。

 

 「演劇の事、随分詳しいのね。」ナッパがそう聞いた。

「そんなことないよ。僕の姉が高校の時、演劇部にいてね、それで少し教えて貰った

だけ」汗で下着が透けて見える彼女の胸に、ともすれば行きそうな視線を逸らし、クマ

は答えた。

「ふうん、そうなの。メイクアップも」

「うん、そう」

「去年のクリスマス・キャロルの時、メガネユキコさんにしてあげたでしょう」彼女は

いたずらっぽく少し笑った。そして、「私にはしてくれなかったのね」と呟いた。

彼女もマーサという役で出演者の一人だった。

クマには彼女の真意が図り知れなかった。前回一緒に帰った時は、バスの中で一言も口

を聞かなかったのに、今日は妙に思わせぶりな事を言う。

 バスが来た。定期券を運転手に見せ、前扉から乗る。席は空いてなかった。

「私ね、夢を見るのが好きなの。朝起きたらすぐ、その夜見た夢をノートに書いておく

の」彼女は吊革につかまって、ナッパは流れ去る外の景色を見ながら、唐突にそう言っ

た。その大きな瞳は美しく輝いている。

「それでね、夢で見た事が、後になって実際に起きるの」

『おいおい、オカルト紛いな話題は勘弁してくれ』とクマは思いつつ、少し前に買った

G.フロイトの「夢判断」を読んでおけば良かったと後悔し、彼女に明解な解答、と言う

よりも知ったかぶりが出来ない自分を恨んだ。そして彼女の会話がいつも脈絡がなく支

離滅裂である事を不思議に思うのだった。

『確かに彼女は考えもつかないような事を突然、口にする癖があるように見えるが、そ

れが本性なのか、どちらかというと饒舌ではない自分への思いやりで、思いつくまま話

しかけて来るのかは不明だ』

 

 アグリーの言う相談事とは十月末にある文化祭にヒナコとムー、二人と一緒に出演し

ようというものであった。

「はあっ」と思わず驚いてクマがヒナコを見ると、肩をすぼめてニヤッとしている。そ

の表情から彼女が最初からクマに頼むと即座に断られると踏んで、先ずは御しやすい

アグリーを引き込み、クマを説得しようとの魂胆である事を理解するのは容易であっ

た。

 「なんで」クマは言った。「ギター要員が必要ならムーとアグリー二人いればそれで

十分じゃない。まあライブなんだから、そんなに難しい事をするんじゃなくて、スト

ロークならストローク、フィンガーならフィンガー、リズムだけしっかり押さえて基本

的なプレーをキッチリすれば、それで十分格好がつくと思うけど」

クマの言うことは2-4フェアウェル・コンサートの苦い経験に裏打ちされたもので、

特にアグリーに対して説得力があった。

 「ううん、ムーは自分じゃあ無理って言っているし、やっぱりギター2本欲しいし」

ヒナコが初めて会話に参加した。

「だったらセンヌキでいいじゃない」

「いや、アレンジとか考えると、やっぱクマがいなきゃ始まんないよ」すがる様な目を

してアグリーが言った。クマは『一体何やろうと思ってるの』と言おうとして、それを

言うと興味を持ったと勘違いされそうなので、「オレのギターを貸してやるから、それ

で勘弁してくれよ」と首を横に振りながら妥協案を提示した。

「ギターならもうセンヌキから借りることにしてるんだ」

「やっぱりね」何故、クマはやっぱりと言ったのか。彼等の根底にあるのは、憧れの

スーパースター達の模倣であり、ステージに何本ギターを並べるかが重要な問題であっ

た。相変わらず音楽の本質でミュージシャンしている訳では無かったのだ。

 しばらく沈黙の後、突然アグリーが落語家のような口調になった。

「しかし何だねえ、ところでクマさん」

「へえ、何です、ご隠居。とでも言うと思ったか、冗談じゃない。もう懲り懲りなの」

「でも世田谷区民会館だよ。あのマルケヴィッチが日本フィルを指揮して録音した」

 アグリーが言うように、本職のオーケストラが世田谷区民会館をレコーディングに

使った事をクマも知っていた。そして彼等が通う東京都立深沢高校は、毎年文化祭の初

日をそこで行っていたのである。『そんなに音響がいいのだろうか』クマは小学校時

代、そこで世田谷区主催の作文コンクールに出品し表彰状を受け取っていた事を思い出

していた。そして、ふとそのステージにアグリー達がいるのを客席から見るのは、少し

寂しいかも知れないなと一瞬考えたが、直ぐに気を取り直した。

「クラッシックには興味無し、何度言われても答えはノー、ニヒトだ」

そう言うとクマはアグリーとヒナコに背を向けて歩き始め、振り向きもせず手を振っ

た。

 「やっぱりダメかなあ」アグリーを見上げてヒナコが呟くと、「大丈夫だ、奴はきっ

とやるさ。マグロが泳がなければ死んでしまうみたいに」アグリーは意味不明な例えを

出して胸を叩いた。

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緒永廣康 「ソメチメス」(sometimes)41

21.ただその四十分の為だけに(「告別演奏會顛末記」その後)(3)

 「クマさーん、お客さーん」 三年でもまた同じクラスになったメガネユキコが、彼ら

の部屋、三年一組の出入り口からそう呼んだ。クマが何事かと訝しがりながらそこまで

行くと、全く知らない女生徒が立っている。

 「あの、私、三年七組のチャコと言います。あなたが演劇に興味を持ってるって聞い

たので、演劇部を作ろうと思って来ました。一緒にやりませんか」 メガネ越しに真面目

そうな眼差しでクマを見つめその子が口を開いた。

 「・・・」思いもよらない提案にクマは一瞬言葉を失ったが、せっかく三階から一階

まで訪ねてくれた見知らぬ少女が、もう少し可愛ければ良かったのになどと邪念を抱き

ながらも、相手が傷つかないよう慎重に言葉を探した。彼をそうさせる何かが脳裏をよ

ぎったからだ。
 

 四月の初め、学校は春休みで彼等二人は月並みに渋谷のハチ公前で待ち合わせをし

た。それは、二年間同じクラスであった四組の最期を飾る合宿が終了し、渋谷からの

帰路でクマがナッパを誘った初めてのデートだった。彼らは「公園通り」と呼ばれる大

通りを抜け、代々木のオリンピックプールを通り過ぎて明治神宮に着いた。

 参道の砂利道に人影は疎らで、二人は恐ろしく退屈な話ばかりしながら歩いた。

「この道も正月参賀日は人がいっぱいで動けないんだ。それでも家の親父が行こうと

言って聞かないものだから、毎年その度に喧嘩。それなのに今日ナッパさんをここに

誘ったのも、おかしな話だね」

 彼女はその言葉に少し微笑んだ。本堂の前には正月とは打って変わったように控えめ

な賽銭箱が置いてあり、二人は並んで二礼二拍一礼した。彼は本気で二人の関係がこの

まま続くようにと祈った。ところがそのあと菖蒲苑の方に回り池の畔のベンチに腰を下

すと、クマの願いとは裏腹に二人は早くも口論になった。

「・・・だから僕はね、もし僕がこうすれば、こんな事を言えば、相手が喜ぶだろうっ

て分かっている時でも、敢えてそんな事をしようと思わない。そういうのは何か見せか

けの白々しい優しさみたいで大嫌いだな」

「そうかしら。私はそうは思わない、私はやっぱり人の為に何かしてあげたいわ。人間

には思いやりが必要よ」日頃とは違い彼女は意外な程、強い口調で答えた。

「でも仮に、人を思いやることで自分が疲れるとしたら、自分を殺す事で、人に尽くす

としたら、それは誠意とは言えないじゃないかと思うけど」

「そうかも知れないわ」

「だから僕は人に対して優しくあるよりも、誠実でありたいと思うんだ」

「でもそれは、あなた自身に対しては誠実であっても、相手の人に誠実であるとは限ら

ないでしょう。たとえ自分の本心はそうでなくても、人を思いやるのが本当に優しい人

ではないかしら」

「そうかな、それは見せかけの優しさだと思うよ。自分を偽るということは、裏を返せ

ば相手を欺いてる事になるんじゃないか。確かに、よく女の子は、どういう男性が好き

とか聞かれると、大概は優しくてユーモアのある人って答えるけれど、そしてその優し

さというのが、相手の喜ぶ事をしてあげる事ならば、僕は全然優しい人間じゃないね」

しばし小休止があった。

「いいえ、あなたはやっぱり優しい人だわ」彼女は殆ど自分に言い聞かせるように小さ

く呟いた。


 「あのー、折角の提案なんだけど・・・、ちょっと難しいかな。受験もあるし・・・

確かに演劇に興味が無い訳じゃないけれど・・・、悪いんだけどお断りします」クマは

漸くそこまで言い終えてチャコと名乗る女生徒の目を見た。

「今すぐに結論を出さなくても、一週間後にまた来てもいいですか」

「いや、その必要は無いと思います。あなたの夢が叶うことを陰ながらお祈りします」

クマはそう言って少し微笑んでみせた。『これが精いっぱいの優しさかな』

 彼女は落胆を隠そうともしないで立ち去った。すかさずメガネユキコとヒナコが寄っ

てきて話の内容を尋ねた。

「もうあんな事に情熱なんか湧かないし、いまさら夕方以降、学校にいる気はしない。

その為に部活もやっていないし、アグリーともギターを弾いていない。だいたいもう新

年度は始まっているんで、今更予算がつく筈が無い。どうやって活動するつもりなんだ

ろう、ちょっと考えが甘いんだよね。そう思わない。でもどうして今頃演劇の話がくる

のかな」クマは本心を明かしながら、これがもしナッパからの申し出であったらどう対

応したのだろうかと考えた。

 メガネユキコは「そりゃあそうよね、そう言ってあげれば良かったのに。演劇の話は

二年四組が四散して、クマさんの事を誰かが流したせい、情報の広がる速度は今日は国

内、明日は世界よ」といつも通りの適切なたとえで答え、ヒナコは少し難しい顔をして

「でもねぇ」とだけ独り言のように呟いた。その呟きの理由をクマは間もなく知ること

になる。

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緒永廣康 「ソメチメス」(sometimes)40

20.ただその四十分の為だけに(「告別演奏會顛末記」その後)(2)

 

 そして1974年4月、部員数わずか11名の池田高校野球部が、春の甲子園で準優

勝した事を称賛する余韻がまだ残る頃、クマはたった一人で新たな戦いを始めていた。

 高校3年になって遅れ馳せながら大学受験に目覚めた彼は、卒業に必要な必修科目と

単位数を取得する受業のみ選択し、それにより生じる自由裁量の時間を自宅での勉強に

あてる事とした。この大胆な決定は音楽仲間であったアグリーやセンヌキを始め周囲の

者たちを驚かせたが、因数分解くらいでしか得点が望めない数学と早く縁を切りたいと

切望していたクマにとっては、当然の結論であった。

 とにかく現役で大学に合格すること、それがクマが自分に課した目標だったが、勿論

大学ならば何処でも良いという訳ではない。そこまで割り切るならば、受験勉強などせ

ずとも行けるところは幾らでもある。しかし、そのような進学を親が認めてくれる筈が

無い事は明白であり、嘲笑されない程度の見栄えのいい大学生になる為に、クマは少し

でも偏差値を上げる必要があったのだ。

 「それにしても」、彼はふと考える、「何故自分はそんなに現役に拘るのか」。親の

経済的負担を軽減する、とは聞こえがいいが、そんな事はこれっぽっちも考えていな

い。

 彼にとって大学の存在理由とは、何の楽しみも無い社会人になる前に与えられる執行猶

予。漂流した十五人の少年達の二年間とは違い、四年間大人としての権利は享受するも

のの好きな事が出来て、それでいてある程度身分は保証される。それを手に入れる為

に、ただでさえ息が詰まりそうな現在の生活の延長線を、更に延ばす心算は毛頭なかっ

たのである。

 そうやって授業を最小限に削った結果、どうしても避けられない現国と英語 (文法) が

ある月曜と木曜以外、午前中で彼にとっての学校は終了し、その日も夜に備え眠る為に

食事も摂らず昼過ぎには校門を出て、これまで幾つものドラマがあった深沢八丁目のバ

ス停まで続く桜並木を歩いていた。

 殆ど人通りの無いの道を一人歩きながら、「ところで、この通りに名前はついている

のだろうか」とクマはいつものようにあまり意味の無いことを考えながら、ふと時間を

遡った。

 

 「劇、大丈夫かしら」ナッパは額の汗を拭きながら言った。1973年、夏休みも間

近な7月の初めのとても暑い日だった。彼女は赤い水玉模様のシャツにジーパンをはい

ていた。9月末にある文化祭で、彼等のクラスの出し物は演劇、菊池寛の「父帰る

だった。1年生の時も同じメンバーのクラスで、ディケンズの「クリスマス・キャロ

ル」を上演したが、手分けして作った脚本がメチャクチャだったせいもあり、劇自体纏

まりを欠けたとの反省を踏まえ、2年になって最初から戯曲を選んだのである。ただ題

名は「蕩父だって帰ってくる」というこの物語の原題に変更していた。

 クマは何故か文化祭と言えば演劇と決めていて、クラスの責任者になると多数の反対

を抑え込んで一部の賛同者と実行までこぎつけたのだった。

「多分上手くいくと思うよ。割と皆乗って来たから。」彼は答えた。

「そうね、今日の練習、前よりも一段と熱がこもっていたみたい。ダンディー君の賢一

郎、少し怖かったんだもん。」そう言ってナッパは思い出し笑いをした。

彼女もクマが無理やり引き込んだ文化祭の責任者の一人だった。

 真夏の太陽は容赦なく照り付け、二人は学校からバス停へ続く、桜並木を歩いて行っ

た。彼女は何度も汗を拭い、薄手のシャツから下着がくっきりと透けて見えていた。

 

 バス停まではまだ距離がある。思い出を辿るには十分な時間だ。クマはふと遠ざかる

校舎を振り返り、ナッパは今どうしているのだろうと考えていた。

 

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