緒永廣康 「青春浪漫 告別演奏會顛末記」 8

3. 「私は怒っています」ナッパは電話の向こうで泣いた (3)

   話が少し遠回りしたが、機関誌 "DANDY" の編集は毎週木曜日に行われていた事は既に述べた。そんなある

日、現国のテストの答案が返って来た。教員チカン清水は一人ずつ名前を呼んで教壇から返却するのだが、

ナッパの時何故か「今回クラスで一番。」と皆に聞かせるよう嬉しそうに言い放ったのだった。教室には一瞬

ある種の違和感が漂い、皆が沈黙した。別に妬みや羨望ではない。清水教員がそんな事を言うのが初めてだっ

たからだ。ナッパは恥ずかしそうに受け取って席に戻り、皆も我に返ったように拍手した。

 その日の "DANDY" 編集は紙面にまだ余白があったのが一番の理由だが、センヌキを中心にアガタ、クマの

三人で、「S教員との対話」と題し、チカン清水とナッパのスキャンダラスな関係、その他教員の糾弾や揶揄

などを書いた誰が読んでも冗談と判る記事をでっち上げた。翌日それを配布する前に、よせばいいのにナッパ

に、これまた冗談で『お詫び状』を編集部一同名で手渡したところ、その日の昼休み、先ず何の関係もない

アグリーが彼女から相当強い口調で抗議を受けた。彼は弁明の機会さえ与えらず、次の授業が体育だった為、

更衣室で殆ど半ベソをかきながら、何故無関係な自分が責められるのかとクマ達に当り散らした。彼にして

みれば恋敵であるクマのした事で、自分がナッパから嫌われてしまう訳にはいかなかったのだ。当事者である

三人は「所詮オタクの日頃の行いが悪いのよ。」などと訳の分からない事を言いながら、さほど気にも留めて

いなかった。

 はたしてクマが帰宅して、いつものようにギターの練習をしていると、ナッパから電話がかかってきた。

考えてみれば、ナッパから電話を貰うのはそれが初めての事だった、クマはその時気づくべきだったろう。

その第一声たるや、「私は怒っています。」ときた。電話のせいかアグネスチャンの歌声が少し笑いを抑えた

ような風に聞こえたクマは、てっきり冗談かと思い、ヤツもなかなかユーモアのある人間だなと感心しなが

ら、『しかし待てよ、わざわざ冗談を言う為に電話して来るということは、ひょっとして俺に気があるの

かな』と勝手な解釈をして、「本当に怒っているの。」と少し馴れ馴れしく訊いた。ところが暫く話している

うちに彼女はなんと泣き出してしまった。『本当に怒っている!・・・』

 クマは幼稚園からこのかた女の子を泣かした事など一度もなかった。どちらかと言えば自分が傷つき泣か

されてきた方が多い位なのだ。泣かした事がないのだから、泣いている、しかも憧れの女の子に対する『傾向

と対策』など知るはずもない。彼はビビった。

 涙声のまま「さよなら」と言って二年近くクマが恋焦がれ続けたマドンナのナッパは電話を切った。

『もしかしたら、これが最期の会話になってしまうのか?』

『あの優しい微笑みは、もう二度と振り向かないのか?』

『あの澄んだ瞳は、再び僕の影を映すことはないのか?』

『この想いを伝える事も出来ず、何も始まらないまま全ては終わってしまうのか?』

『幸せは訪れず、唯、去ってゆくだけなのか?』

彼はどんな場合でも、物事を冷静且つ詩的に考えてしまう癖がある。というのは嘘で、すっかり取り乱し、

慌てふためく自分を落ち着かせようと、手当たり次第に電話を架けまくった。彼等の反応は様々であった。

   センヌキ  「アホクサ」

   ダンディー 「それはナッパさんが君を好きだからだよぅ」

   アガタ   「これはチャンスだ、前よりも進展したぞ」

   アグリー  「アナタ、もう、おしまいよ」

 クマはアガタの答えが気に入った。そしてナッパに電話をし、出来うる限りの誠実さを装い、自分でも

バカバカしくなる程神妙に謝り、取敢えず機嫌を直して貰う事に成功した。

心の中に新たな期待が大きく膨らんでいくのを感じながら、しかし顔の締まりが無くなり、だらしなく微笑ん

でいることには、まるで気付いてはいなかった。  <続>

緒永廣康 「青春浪漫 告別演奏會顛末記」 7

3. 「私は怒っています」ナッパは電話の向こうで泣いた (2)

 『五行 ①中国古来の哲理にいう、天地の間に循環流行して停息しない木・火・土・金・水の五つの元気。

万物組成の元素とする。』(広辞苑第六版より抜粋)

 

 現国の教員チカン清水は中間、期末といった定期試験の他、予告、抜き打ちのテスト以外、あまり教科書に

従わず生徒達に題目を指示しさかんに作文を書かせた。それは「現代国語の授業の最終目的は文章を書ける

ようになる事」という彼の持論によるものであり、授業中であったり宿題となった。 問題はその作文の評価

だった。試験やテストは100点満点方式で査定されたが、作文には漢字一文字が赤鉛筆で書かれているだけな

のだ。清水教員は手の内を明かさないし、生徒は面食らった。「俺は "金" だ。」と喜ぶ者あり、「私は "火"

だけど。」と訝しがる者もいる。やがて生徒達はカレンダーの曜日順ではないかと推測したが、更に回数を重

ね情報を収集すると "日” と "月”が無い事が判明し、皆で色々調べた結果、ようやく木火土金水の順に高評価

だという結論で落ち着いた。しかし教員は最後まで真実を語らずニヤニヤ薄ら笑いを浮かべるだけだった。

   因みにクマはいつも "木" だったが、一度だけ題目「旅」で授業中に書いた短文では違う評価を受けた。

 

               「青春の旅路」

                              2年4組  クマ

   まだ明けきらない紫色の空が遠く流れる雲の影を写して、

  目覚めた渡り鳥のように、一人また一人、今再び旅立つ。

  通り過ぎる思い出を置き去り、まだ見ぬ明日を追って、旅を続けるのは人の定め。

  傷ついた涙と失くした愛を、誰が忘れずにいられるだろうか。

  「さようなら」という言葉を何度も呟きながら、行ってしまう心。

  僕等はここまでの旅に疲れてしまった。

     新しい道には別の君が待っているかも知れない。そんなささやかな望みも

  いつか捨てる時が来て、その時また立ち止まって振り向く事が出来たら、

  きっと誰かが微笑みかけてくれるのを待っているだろう。

   今、青春という儚い道程が終わる頃、子供の夢は波に浚われる砂の城のように

  脆く崩れてゆく。

  忍び寄る冬の足音に外套の襟を立てて、ここに一つの別れと出会いがある、

   そしてまた新しい涙を求めて、旅は永遠に続く。

 

 数日後、クマの手元に戻ってきた原稿用紙には、「名文!」と二文字、赤鉛筆で書かれてあった。<続> 

緒永廣康 「青春浪漫 告別演奏會顛末記」 6

3. 「私は怒っています」ナッパは電話の向こうで泣いた (1)

 センヌキは安美津子ことメガネユキコにフェアウェル・コンサート出演を依頼したが、あっさり断ら

れてしまった。彼女は学級委員でそこそこ成績も良く、ズケズケものも言ったが、傲慢なところは無

く、誰とでも気さくに話す、特に女の子達にとってある種『お姉さま』的存在だった。

専ら下校途中、数名で駒沢あたりの喫茶店に寄り、『あんみつ』を食べながら雑談しているという噂の

ある2年4組にあっては、珍しくいたってノーマルな女子であったのでクマは一応敬意を表して女史と

呼んでいた。

 センヌキは1年生の時、同級生のペチャ松という一般的客観性に照らし合わせて見ればれば可愛い

容姿のバレーボール部所属で、マカロニ・ウエスタンのトップスター、ジュリアーノ・ジェンマ

大ファンの子に五回アタックして五回ともブロックされた経験があったが、2年生の夏になって、

今度は何を思ったかメガネユキコに惚れてしまい、夏休み、健全なに白昼、自分の思いを告白すべく

駒沢公園まで呼び出したのだが、不運なことに偶然チャリンコで遊びに来たクマ達とバッタリ会って

しまった。

「何やってるの。」とのクマの問いに、「いや、ちょっと。」と少し顔をしかめながら答えに窮して

いるところにメガネユキコが現れ、男女の機微に疎いクマが結果的に邪魔する形となり、皆で秋の

文化祭の話などしてセンヌキは何も言い出せずそのまま散会となった。

 その日夕方、何の為にに呼び出されたのか不信に思ったメガネユキコから電話を貰ったセンヌキは、

すっり挫けていて適当な言葉でごまかしてしまった。コンサートを利用して巻き返しを計った彼の

公算は、こうして崩れていった。

 そして「それならそうと言ってくれれば良かったのに。」と後からその訳を聞いて、人の不幸を笑顔

で同情していたクマも "DANDY6号 " の『S教員との対話』という記事がもとで、笑ってばかりはいられ

なくなるのだった。 <続> 

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緒永廣康 「青春浪漫 告別演奏會顛末記」 5

2.「僕達は週刊DANDYを発行します」編集部一同が宣言した (2)

 一方コンサートの方は、「2-4 フェアウェル・コンサート」と名をうって "DANDY" の紙面を借り、

PRが始められた。

ウッドストックバングラデシュと並ぶ愛と平和と音楽の祭典」とは、無論冗談とはいえ、あまりにも

大袈裟で馬鹿げたフレーズだが、

「あ~ら奥さん " フェアウェル・コンサート " ってご存知?」「そりゃ知ってるわよ、お隣でもその話

でモチキリよ」=なんたって、『フェアウェル・コンサート』 だからして=はアグリーのハイプの極致

言えた。

また教室の壁にある掲示板には、クマやアグリーが自宅での勉強時間を惜しみなく割いて描いたポスタ

が貼られた。そしてその祭典の日時は1974年3月25日、終業式終了後と定めた。

 さて"DANDY"の編集及びガリ版刷は、主に木曜日に行われていたが、機関誌作成に必要なボールペン原紙、

藁半紙、輪転機などは、アガタの迫力ある顔で、すべて新聞委員会の物を流用していた。木曜日は何故か

女子も十名程残って、例のムーが弾くお世辞にも決して上手とは言えないギターに合わせフォークソング

流行歌を歌っていた。クマ達は計画通り、ムーと歌に多少自信があるらしいサチコにコンサートの出演依頼書

を渡し、了承を得た。ムーはヒナコとかいう1組の女子と一緒にやるとのことであった。 このムーとヒナコ

(HIM)二人と、アグリー、クマの四人はグループを組んで、その7か月後、世田谷区民会館のステージ立つ

ことになるが、この物語ではそれには触れない。

 そんなある日、クマが放課後教室で "DANDY" のガリを切っていると、突然ナッパが彼の所にやって来た。

「あの~」アグネスチャンの歌声にローフィルターをかけたような声だ。クマは実にその声が好きでたまら

なかったのである。彼は書く手を止めて顔を上げた。

「・・・フェアウェルっていうのは、自分達が演奏するのを聞かせるんですか。それとも皆で・・・。」

ナッパの問いかけに一瞬間をおいて、

「皆で楽しくやろうというものですよ。出ませんか、なんか皆でよく歌っているみたいだけど・・・。」

クマは言葉の内容と違って、緊張のあまりひどく事務的な口調で答えた。ナッパは軽く頷いて、納得と

いった表情を作った。 クマはそこでもうひと押しすればいいところを、何となく面映ゆい気がして再び

下を向いて描き始める。彼女は何か言いたげに暫くそこに立っていたが、やがて兎のように跳ねて教室の

外に消えて行った。すかさず傍にいたセンヌキが言う。

「いいの? あんなに冷たくあしらって。」クマは決してそんなつもりではなかったのに、そう言われれば

そういう気がしないでもなく、翌日改めて正式に出演依頼書を渡す事にしたが、彼は自分の気持ちがいつも

裏腹になって態度に現れることをもどかしく思うのであった。

 

緒永廣康 「青春浪漫 告別演奏會顛末記」 4

2.「僕達は週刊DANDYを発行します」編集部一同が宣言した

 1974年1月、”軍艦島”と呼ばれる高島炭鉱閉山のニュースが流れていた。 それとは全く関係無く、深沢

全共闘兼新聞委員のアガタの発案のもと、機関誌がクラス内のみ発行される事になった。

全共闘と言っても、所謂学生運動は既にピークを過ぎていたが、校内ではその流れを汲む者が2~3名おり、

入学式等でヘルメットを被りビラを配ったりする他は、特に目立った活動はなかった。その連中の拠点が

新聞委員会であった。

 尚、学校は一応制服を定めていたが、生徒の大半は私服で、アイビールック以外の者はGパンに長髪で

登校していた。これ位がかっての運動の名残と言えるものだった。

 機関誌”DANDY"の編集は、顔に迫力のあるわりに以外と軟弱なアガタ。彼はその迫力をかわれたのか、

田中正造を扱った三國連太郎主演の映画「襤褸の旗」に出演した経験があった。勿論エキストラの一人

として。服装は上下ジーンズで、いつもマジソン・バッグを持ち歩いていた。もう一人は1年生の2学期、

よその男子校から編入して来て、クマ達が噂でしか聞いた事がなかった " バレンタイン・チョコレート "

とやらを貰った実績のある機関紙名となったダンディー。あとはセンヌキとクマ、四人で始められたが、

のちにアグリーやトシキ、カメといった”深沢うたたね団” の面々も加わった。 

 この機関誌は思ったより不評で彼等を落胆させたが、特にアガタはアグリーが入った為、「紙面がハイプ

になった」と一時編集部を去ってしまったりした。ハイプとは "ダサイ、クサイ、カッコ悪い" を意味する

彼等だけに通用する言葉で、その反意語はヒップである。

アガタは立場上、反体制的でアナーキーぽい記事を担当し、センヌキはそれを軟弱に追従する文章。クマは

当然ナッパの事しか頭にないので、詩ともエッセイともつかない、何か言っているようで、何も言っていない

意味不明なコラム「深沢うたたね団の伝説」を担当した。例えばこうである。

   

  朽ちかけた長い回廊を抜けた時、早春の陽光は眩しく暖かかった。

  透き通った新緑の若葉が風にささめくのを聞き、僕はまた新しい詩を一つ書こうと思った。

  汚れなく白い思い出をその言葉に託して、輝くこのひと時を飾ってみよう。

  描きかけのカンバスに絵具を重ねて、いつかは別れてゆく二人の後ろ姿を見送るように、

  栞をさした頁を開いて泪の跡を辿る。

  流れ星が燃え尽きたら僕は広い夜空の何処かに、願い事の一つを失くしたように

  星々の間を探すけれど、心の中で歌はいつも独りぼっちだった。

  遠い夢の旅路をさすらう人の、あの優しい微笑みにもう一度出会えたら、

  白百合の花に包まれたイースターの街に夜明けを求めて、

  さあ行こうワトソン君、ガニマールでは頼りにならないからね。

 

 ダンディーは「最初ハイプかと思ったけど、最後はヒップで締めたね。」と評してくれたが、クマはナッパ

がこれを読んで、クスッとでも笑ってくれたのならそれだけで満足だと思っていた。 <続>

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緒永廣康 「青春浪漫 告別演奏會顛末記」 3

1.「コンサートやらないか」アグリーが言い出した (3) 

 アグリーのソロアルバム制作は、手持ちの作品がまだ残っていたが、開始時に時間を浪費し過ぎた為、結局

4曲録音して取敢えず終了した。 残りは後にアグリーとセンヌキ二人がベーストラックを作り、アグリーが

そのテープとデッキを持ってクマの家を訪ね、リードギター、ボーカル等をダビングする形が採られること

になる。

 何れにせよ、これまで学校でたまにしか一緒にギターを弾くことがなかった三人は、初めてそこで正式に

バンドを組む事にしたのである。バンド名はI,S & N。変に凝った名前より、自分達の名字の頭文字を

並べただけの方が渋い。との理由であるが、どう考えても当時クマ達が心酔するアメリカのロックバンド

C, S, N & Y (クロスビー、スティルス、ナッシュ & ヤング)の模倣としか思えない名である。

 ところでこの若き芸術家の卵達にとって、ひとつの切実な問題があった。 そもそもアグリーとクマの

芸術とは、自作自演の歌で女の子の気を引こうという、その年代にはありがちの愚かな動機から始まった

部分が大半で、しかもお互いにっくき恋敵同士。即ち片思い三角関係であったのだ。

 話の始まりはこうである。クマは1年生の6月頃からナッパという髪が長く鼻のトンガッタ、そして声が

頭上30cmから出ているアグネス・チャンの歌声のように話す女の子に密に心を寄せていたが、それが2年生

の春になって悪ガキ連中バレバレになってしまった。 因みに2年に進級するにあたり、学校側のアンケート

調査の結果、クラス替えは行われなかった。 アグリーは最初クマとナッパの仲をプロデュースしてやると

胸を叩いてみせたのが、そのうち自分もその気になってしまったのである。

 しかし二人共比較的内向的な性格が邪魔をして、ナッパに対し何も言い出せずにいた。もっとも彼等の

クラス2年4組は、担任カギ付サナダ虫の暗い性格の影響を受けたのか、何故か男女間でフランクな会話を

する雰囲気が乏しく、それぞれ数名で寄合、誰かが異性と親しく話したり、また気を引くような態度を見

せると、いきなり冷たい視線が走るといった状況だった。クマが音楽室で授業前サイモン & ガーファンクル

 の "明日に架ける橋" のイントロをピアノで弾いた時もそうだった。それでいて皆が硬派だった訳でもなく、

夏休みには二泊三日の合宿をしたりする変なクラスであった。

 その中でナッパはクラス最大勢力=と言っても別にスケ番グループなどではない=内気お嬢ちゃんタイプ

集団 「二年四組インケン・グループ」に属しており、彼女とお近づきになり森田健作主演の青春ドラマの

ように臭く明るく楽しい生活を送る為には、先ず彼女をそのグループから引き離す必要があると、軟弱お坊

ちゃんタイプの集団「深沢うたたね団」所属のクマ達は、真面目な顔をしてそんな事ばかり話し合っていた。

そこでクマは秋の文化祭の責任者を決める投票で自分が選ばれるや、女子の方でナッパがメガネユキコの

次点である事を調べた上で、「責任者は男女二名ずつがいい。」などと言って無理やり彼女を引き込むとか

結構陰湿な事をやっていた。

 そういった訳で、コンサートを開くにしてもナッパがいないコンサートなど、クマやアグリーにとって

何の意味もない事であり、その為にはどうするか。誰か女子を出演させてナッパも付き合いで見に来させる

のである。ちょうど3学期に入ってからムーという一風変わった女の子が、放課後ナッパを含むインケン・

グループ等を引き連れてギターを弾き、体育館の下でしきりに歌っているので、あれを出してやろうと話は

まった。

しかしその時はまだナッパ本人が出演することになるとは、思いもよらなかったのである。 <続>

緒永廣康 「青春浪漫 告別演奏會顛末記」 2

1.「コンサートやらないか」アグリーが言い出した (2)

 レコーディングごっこであるからして、スタジオでやるわけではない。その頃の彼等の小遣いは、

学用品を除き月々LPレコード1枚とギター弦を買う位が精一杯で、レンタルスタジオを借りる余裕

など無かった。もっともスタジオ自体、当時はそれ程一般化しておらず、数も少なかった。

 しかしエレクトリック・ギターをアンプに繋げば大きな音が出る。という点ではプロもアマチュアも

違いはない。近所迷惑なギター小僧がまずしなければならないのは、場所探しである。

幸い大学教授をしているというセンヌキの父親が、自宅二階にある20畳程のリスニングルームを、

レコードを聴くだけでは飽き足らなくなった、苦悩する若き芸術家の卵達に開放してくれたのだった。

20世紀最大のメロディーメーカーになる予定のアグリーの処女作の制作はこうしてはじまった。

 しかし3人共負けず劣らず自分勝手な気分屋で、そもそも人の為にに何かしようという性格が、

少し欠如していた。 肩からカセットデッキを背負い、両手にエレキと生ギターを提げ、自宅のある

三軒茶屋から上野毛までバスでやって来る途中、クマは殆どヤル気を無くしてしまい、その不機嫌

そうな顔を見たアグリーは、委縮してなかなか思い通り進められなくなってしまった。センヌキは

いたって元気なのだが、如何せん彼の音楽レベルはクマやアグリーのそれとは桁外れに低かった。

「だからさ、”観覧車”はモノになるとおもうよ。」痩せぎすで人気絶頂の吉田拓郎風オカッパ頭を

したセンヌキが3ヶ月伸ばしっぱなしの3ミリの髭摩りながら言う。その言葉に自称吟遊詩人、神経質

な割には肉付きの良いクマも仕方なしに頷く。「じゃぁ、それやるべ。」イヤラシイ眼差しと分厚い

唇さえ無ければ、長身でスマートなアグリーが気のなさそうな声で返事した。

「でもその前に写真を撮ろうよ。」センヌキがニコンFを出してきたので、全員一致その日は”レコー

ディング風景”の写真を撮る事に決まった。

 どうも彼等は音楽の本質とは関係無い部分でミュージシャンしており、肝心な録音は一向に進む

気配もなかった。

そういったダラダラ・ムードがアグリーの自作 ”僕達のナパガール” という曲になって、何故か俄然

乗り始め、あるだけの打楽器をダビングし、ようやくノリノリの雰囲気が出て来た。

 その日夕方、センヌキの母親が差し入れてくれた夕食を食べながら、

「せっかくこうして練習したんだからさ、コンサートやらないか。」とアグリーが言い出した。

何事にも軽いセンヌキが賛成する。「あっ、いいねそれ、やろうよ。」

「うーん、そうだねぇ・・・。」二人はクマのその次の言葉を待った。クマはなかなかYESと

言わないが、一度そう言ったら必ずそれをやる男、アイツに任せれば間違い無い。その点だけは、

彼は仲間内で一目置かれている。

「どうせ2年生も、もう3月で終わりだし、3年になればクラス替えで受験勉強も少しはしなきゃ

いけないし、最後に皆でパーッとやろうよ。」”別れ”とか ”最後”とか哀愁を帯びた言葉に弱いクマの

性質を知るアグリーがたたみこむ。

「うーん、いいかもね。最後にね”さよなら”いや ”フェアウェル・コンサート” か、やろうか。」

フェアウェル・コンサート・・・クマがその言葉の響きに酔い痴れている時、アグリーとセンヌキは

目でうまくいった合図した。  <続>