緒永廣康 「ソメチメス」(sometimes)65

45.ただその四十分の為だけに(「告別演奏會顛末記」その後)(27)

 

 「ねえクマさん、ちょっといい」

 午前の授業が終了して帰り支度をするクマにヒナコはそう切り出した。クマは返事はせず顔だけ彼女の方に向ける。

 「あのう、7組の藤森君って知ってる」

 「あー、うん、確か同じ中学だったけど、よく知らないし、親しくもない。あいつがどうかしたの」

 「うん、えーっと、何でか判らないけど、こないだから家に何度もしつこく電話してきたり、学校でも廊下ですれ違ったら話しかけてくるの」 

 「ふうん、あの男とは話した事ないし、別に目立ってもいなかったから良く分からないけど、人畜無害なタイプの人間だと思ってたけどね。でも普通に考えて、そういう事をするのはアナタに気があるからでしょ。で、何ていってるの、奴は」

 「今度、映画に行こうとか、食べ物は何が好きとか」

 「で、アナタはどうなの」

 「はっきり言って迷惑なの。なんかフニャフニャしてて気持ち悪いし」

 「そう、だったらそう言えば」

 「そうしようと思ってるけど、その時、あたしとクマさんが付き合ってるって言っていい」

 「えっ、それはちょっとどうかな」

 「迷惑」

 「いや、迷惑と言うよりも嘘をつくってのが、どうも好きじゃない」

 「でも、誰かと付き合ってるって言うと、普通諦めるでしょ」

 「そうかな、ところで本当に付き合ってる人はいないの」

 「いたらクマさんに頼まないわよ」

 基本的に全方位外交の立場をとるヒナコは男女を問わず人気者だったが、ステディーな関係の異性はおらず、それは少し不思議でもあった。

 「そりゃそうだね、アグリーじゃあダメなの」

 「アグリーどんだと説得力に欠けるような気がするのよね」

 「だったらいっその事、ムーと同性愛だって言ったら。相手も気持ち悪がって、向こうから断って来るかも」

 「もー、クマさんはか弱い女の子を助けようという気持ちは無いの」

 クマは実際のところこの手の話には巻き込まれたくないと思った。藤森という男との間が拗れても別に困る事は無いが、自分がヒナコと付き合っているという間違ったインフォメーションが広まるのは嫌だと考えた。

 『オレは未だナッパを引き摺っているのだろうか。いやそうではない。ただナッパに失恋して直ぐさま別の子を好きになるような人間だと思われたくないだけだ。という事は、やっぱりナッパを気にしているのだろうか』

 遠くを見るような目をしているクマにヒナコは言った。

 「そうね、クマさんはナッパさんの事が忘れられないもんね」

 「いや、そういう訳じゃないんだ」

 「いいのよ、解ってる。断る理由は私がなんとかするわ」

 「そう」クマは申し訳なさそうにニ三度頷きながら考えた。『多分、ヒナコみたいな女の子を恋愛の対象とすれば幸せになれるのだろう。性格は明るいし、嫌味も無く、冗談も通じる。容姿だって悪くは無い。オレは何故そうしないのだろう。まあ、藤森って男は可哀そうだが、ヒナコが嫌なのだから仕方ない。諦めて貰うしかないだろう』

 クマは失恋した自分には同情するが、他人に対しては酷く冷淡だった。しかし、この問題が後になってとんでもない事をひきおこそうとは、二人とも全く知らなかったのだ。

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緒永廣康 「ソメチメス」(sometimes)64

44.ただその四十分の為だけに(「告別演奏會顛末記」その後)(26)

 

 放課後、言われた通りクマが職員室へ行くと、重藤教員は何か書き物をしていた。「3年1組のクマです。何か御用でしょうか」そう声をかけると彼女は顔を上げ「別に今更名乗らなくても判ってるよ。早速だけど、君は亡くなった司書教諭の仁昌寺先生と親しかったの」そう切り出した。

 「いえ、図書室で一度話をした事があるだけですが、あと仁昌寺先生が学生時代に家庭教師をしていた時の生徒が今、重藤先生が担任をしている8組にいて、その子から少し話を聞きました」

 「そう、チャコと仲がいいんだ」

 「いえ、特にそういうわけでも。偶に話をするだけです」クマは一瞬同じ組クラスにいるナッパの名前が出るのではないかと恐れたが、その心配はなさそうだった。

 「まあいいや。ところでこれ、仁昌寺先生から。形見分け」彼女はそう言って机の上に置いてある物を指さした。

 それは真新しいボックスに入った書籍7冊で、箱の表には「失われた時を求めて」と書かれていた。クマはそんな著作があると知らなかったが、タイトルには聞き覚えがあった。

 1971年、ヤマハポプコンの延長として主催する「世界歌謡祭」でグランプリを取った「出発(たびだち)の歌」の副題が確かそんな感じだった。あれは小室等が結成した六文銭の及川恒平が作詞したはずだ。あの歌詞とこの本の内容に関連するところはあるのか、触発されたのか、それとも単に真似ただけなのか。多分最後の理由だろうとクマは思った。

 「これは何が書かれているのですか」クマは重藤に訊ねた。

 「有名なフランス小説。君は音楽が好きらしいけど小説はあまり読まない」

 「全く読まない事もありませんが、夏目漱石は殆ど読んでますし、フランスならばせいぜいデュマとか。あっ、自然主義作家のドーデーは好きです。『風車小屋便り』や『月曜物語』。それとテグジュペリも何冊か読みました。勿論『星の王子さま』以外もという意味です。

 「ほう、結構文学少年してるんだ」

 「いいえ、これが全部一つの物語なんですか。先生は読んだ事はあるのですか」

 「読んでいません。長いし、もっとも少し前に翻訳版が出た『百年の孤独』も長いけど。これは難解だというし、おまけに1万8千円もする。でも多くの作家に影響を与えた傑作って言われているよ」

 「そうですか、読んでみる価値はあるって事ですね。それにしては随分高額のような気もしますが。そうか、仁昌寺先生はこれを読みたかったんですかね」

 クマはそれから少し考え事をするように天井を見上げた。そしてあたかも子供が難解な問題を解いたかの如く声を弾ませて言った。「重藤先生、この本を図書室に寄贈しようと思いますが、いけませんか」

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緒永廣康 「ソメチメス」(sometimes)63

43.ただその四十分の為だけに(「告別演奏會顛末記」その後)(25)

 

 10月に入ると校内の雰囲気はいよいよ文化祭一色に染まり、各クラスとも連日夜まで残って準備に追われていた。通常クラブ活動は、午後の3限目の授業が終了する16時から18時までが原則であり、それ以降学内にいる場合はその時間、人数、用件を所定の用紙に記入、担任の認印を取った上で学校へ届けを提出する必要があった。

 初日に行われる世田谷区民会館の舞台に立つヒナコさんグループのメンバーは、=そんな事が許されるのか定かではないが=クラスの出し物には一切関わっておらず、放課後は自分達の練習を繰り返していたが、その届を出した事は一度も無く、それでも咎められる事はなかった。

 尤もそれは彼等がこれまで学校での行動で、何ら問題を起こしていないという事もあったからだが、校内で喫煙している生徒など掃いて捨てる程いたにも拘らず、彼等が停学処分や厳重注意を受けたという話も殆ど聞いた事がなかった。すべては学生運動で荒廃したモラルのせいかもしれない。 

 そのような中、本番を間近に控えたヒナコさんグループの状況を、音楽的リーダーの立場であるクマは次のように分析していた。

 『アンサンブルはある程度のまとまりが出てきたが、自分が示したハーモーニーの旋律は、各人のセンスが微妙に反映されてしまい、完璧な3パートとは言い難い状況である。しかし、事ここに至って、これ以上の修正を要求する事はかえって混乱を招くだけと判断されるので、言いたい気持ちをグッと抑え、甘んじてそれを受け入れるべきだろ

う。最早、ああだこうだと言うような時期ではない。今、大切な事はこのヒナコさんグループを上手く運営し、アポロ11号のアームストロング船長ように、目的地へ無事軟着陸させる事なのだ』

 そんなクマの気持ちを知ってか知らずか、アグリーは相変わらず3度下のハモりのパートを平気で逸脱、いきなり3度上に飛んだりして、クマの神経を逆なでにしていた。

 

 一方、彼等の練習にはメガネユキコがまるでステージママのように常に現れ、黙って聞いていたが、彼女に言わせればそれは「かよわいヒナコちゃん達を危険なクマやアグリーから守る為」で、音楽に関してのアドバイスは全く期待出来なかった。尤も、彼女が持っている安定感は得難いものものであったのは言うまでもない。

 また、元I, S & N のメンバーであるセンヌキも頻繁に顔を出して、気が付いた部分に茶々を入れたりしていたが、殆ど役に立つ指摘ではなかった。それよりも彼が何か他の事を言いたげな素振りを見せる方がクマは気になっていたが、敢てそれを聞くことはしなかった。『これ以上、面倒な事は抱え込みたくない』

 

 二学期に入って毎晩帰宅が遅くなると、当然実生活にも影響がおよび昼寝をして深夜に勉強するというルーティンをとっていたクマは、この1ヶ月間は完璧に睡眠不足状態に陥っていたが、ある日、耐え難い睡魔に襲われ、たまらず午後の授業をボイコット、エスケイプした。

  クマは受験勉強に最大限時間を割く為、卒業に必要な最低限の単位を取得する時間割を組んでいた。従って午後の受業は週に二回だけで、選択科目の現代国語Ⅲと英文法のみを履修していたが、その現国の教員は重藤という名の女性だった。客観的に考えれば恐らく美形の部類に入る容姿ではあり、若かりし頃はさぞ周囲の男達の関心を一身に集めたかも知れないが、如何せん年齢差は歴然であり、当然生徒達の憧れの的という存在ではない。

 その彼女が何故か出席簿を付ける時、常に一番前の席に座るクマの布製の筆箱から勝手に万年筆を取り出し使用していた。クマとしては決して愉快な気持ちはしなかった。しかし敢て異議を唱える事はせず、『他の授業でも同じ事をしているのだろうか』と、考えるだけだった。

 クマが授業を受けず早退して帰ったその翌週の授業の時、重藤はいつも通りクマの万年筆を摘み上げながら、「先週、お前はサボっただろう」と言って出席簿でクマの頭を軽く叩いた。『暴力教師』クマは一瞬そう叫んでみようかと思ったが、直ぐに止めた。何故なら次に彼女が言った言葉の意味が理解出来なかったからだ。「授業が終わったら職員室に来るように」

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      *      *      *

 決してこの物語を放棄した心算はありませんでしたが、前回更新からほぼ3か月が経過し殆ど放置状態でした。その間、過分なる「はてなスター」や「ブックマーク」を賜り、本当に励みになりました。時間はかかるかも知れませんが、何とか結末まで続ける所存です。誠に有難く厚く御礼申し上げます。ありがとうございます。

 今後とも何卒宜しくお願い申し上げます。

緒永廣康 「ソメチメス」(sometimes)62

42.ただその四十分の為だけに(「告別演奏會顛末記」その後)(24)

 

 「そろそろ」クマはそう切り出すと皆の顔を見ながら続けた。「演目を全て決めないと間に合わなくなると思うんだけど」、アグリー、ヒナコ、ムーの三人は夫々頷く。

 1974年9月、新学期は既に始まっている。世田谷区民会館の本番まであとひと月半、もうそれ程時間は残っていなかった。

 「それで整理すると、決まっているのは、アグリーの『観覧車』。それからヒナコの『さようなら通り過ぎる夏よ』と『秋祭り』。そしてムーの『ぎやまんの箱』と『ゆりかご』。以上五曲だけど、これでいいよね」

 「そうだね、後二、三曲いるって事か」アグリーが答えるとヒナコがそれに続けた。

 「あとはクマさんのじゃない」

 「うん、それで考えたんだけど、僕の『君に捧げる歌』とアグリーの『君への賛歌』をメドレーにして一曲にしたらどうかと思うんだ」

三人は黙ってクマの顔を見た。

 「この二曲は僕とアグリーの記念碑みたいなもんで、これをカップリングする事に意義があると思うんだ。勿論フルコーラスじゃなくて短くしたものをくっ付けて。そうすれば1.5曲分くらいの長さで済むと思う。それでキーが僕のがDで、アグリーのがEだけど、繋ぎの部分で転調すれば割とすんなりいける筈だ」

 「そうするとあと一曲」とヒナコ。

 「うん、只今制作中」クマが答える。

 「どんなん」アグリーが聞く。 

 「英語のグラマーのメスダヌキがいるでしょ。彼女の事をおちょくった歌」

 「タヌキって、森本教員の事か」

 彼等は決して教師とは言わなかった。特に反抗的であった訳でも別にグレていた訳でもなかったが、教員採用試験を受けて教員免許を取得したプロであるから、教員が正式名称なので、そう呼ぶのが筋だという考えだった。従って先生などという文字は論外だったのだ。しかし、本人と話す時は何のためらいも無く「先生」と呼んでいた。

 「えーっつ、コミックソングか」アグリーは少し眉をひそめて言った。

 「受けを狙ってるんだけど。出だしはこんな感じ、♪クリクリお目目の カワイイあの子は 人里離れた 山のタヌキ♪ ダメかなあ」クマはギターを弾きながら歌った。

 「何とも言えんな。大ゴケかも」アグリーは首を傾げる。

 「僕はいいと思うけど」相変わらず男言葉のムーがボソッと呟くように言った。

 「しかめっ面して歌うばかりじゃねえ」と言ったのはヒナコ。

 「えーっと、歌詞についてはもうちょっと考えてみるよ」クマはすんなりと妥協案を提示した。

 「まあ、これで全曲出揃った訳だ」とのアグリーの言葉に「出来ればもっとアップテンポの曲があればいいんだけど。取敢えず、リストにしてみると」と言ってクマは黒板に書き出した。

  1.観覧車

  2.さようなら通り過ぎる夏よ

  3.ゆりかご

  4.秋祭り

  5.君に捧げる歌/君への賛歌

  6.ぎやまんの箱

  7.もう帰ろう

 「こうやってみると、結構それっぽいね」

 「うん、リストだけだと音が無い分いいかもね」クマは肩をすぼめた。

 「またクマさん、そんな事ばっかり言って」ヒナコが肘で突っつきながらクマを見た。

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緒永廣康 「ソメチメス」(sometimes)61

41.ただその四十分の為だけに(「告別演奏會顛末記」その後)(23)

 

 「それで、お葬式には行ったの」ヒナコがクマにそう尋ねた。梅雨明けは未だ正式に

は伝えられていなかったが、午後の校舎の屋上には心地良い風が流れ、遠く駒沢給水塔

の青いドーム状の屋根がやけにくっきりと浮かび上がって見えた。

 「いやそれが、なんでもごく内輪で済ませたみたいでチャコも行ってないんだ」

 「そう、でも何だかクマさん、仁昌寺先生が亡くなってから元気が無いみたい」 

 「そうかな、そりゃあ知っている人が死んでしまうのは、やっぱり気が滅入るよ。未

 だそんなに経験がある訳じゃないけど、歳取ったらそんな事も当たり前になるのか

 な。当たり前になりたくもないけどね」

 「そうねえ」ヒナコはそう言うと後の言葉を探すように空を見上げた。

 「もうじき夏休みだね、去年の今頃は文化祭の演劇の練習ばかりやってたけど、随分

 昔の事みたいだ」クマも空を見上げてそう言った。

 「父帰る、でしょ。私あれ見てない。何してたのかなあ、その時」

 「あれは結構観客が多かった。もっともこの学校の文化祭で演劇の出し物は少ないか

 らね」

 「劇は準備や何だかんだ手間がかかって大変だから、誰もやりたがらない。でもクマ

 さんが一人で二年四組を纏め上げてやり切った、その実行力は凄いってメガネユキコ

 さんがいつも言ってる」

 「そんな事もないよ。最近特に自分は何も出来ないじゃないかと思う事が沢山ある」

 「どうして」

 「僕はね、今まであまり挫折って、したことがないんだ。大成功とまで言えなくて

 も、そこそこの成果は常に挙げられる・・・。そんな風に考えて来たんだ。でもその

 為には人に対しては随分気を使ってきた心算だし、ある意味考え過ぎな位にね。でも

 偶に、本当に偶になんだけど、信じられないようなミスを犯してしまう事がある。

 相手が自分に賛同してくれてると勝手に思い込んだり、特に何も言わなくても十分理

 解されていると勘違いしたり、それでいて言わなくてもいいような何気ない一言を言

 ってしまったりとか・・・。そしてそのせいで一瞬にして一番大切に思っていたもの

 をみすみす失くしてしまったり。何だか、僕って信じられない位バカみたいだな」

 「そんな事ないよ、少なくも私やムーは幸せにしてもらってるし、みんなクマさんの

 事が好きだよ」

 「何故なんだろう、そこにその愛とか恋だとか普通ではない特別な感情が入ってくる

 と、突然物事を冷静に判断出来なくなって必ず間違った事をしでかすんだ。そしてそ

 の間違いは殆ど致命的で取り返しがつかないような影響を与えてしまう」

 クマはそれだけ言うと少し困ったような顔をして黙った。するとヒナコはいきなりク

 マの頬にキスした。クマが驚いてヒナコの顔を見ると、彼女は照れ臭そうに呟いた。

 「ナッパさんじゃなくてゴメンネ、でも私、誰にでもこんな事はしないよ」

クマはそれには答えず頷き、少し間を置いて言った。

 「もっとバカな話をしようか。僕がナッパと付き合い始めた時、どんな事を考えてい

 たと思う。僕はもう音楽なんか止めてしまって、勉強に精を出し、いい大学に入って

 いい会社に就職して、そうやってナッパと幸せな家庭を築く事を真剣に考えたんだ。

 全く笑っちゃうよね」

 ヒナコはただ黙って首を横に振った。

 「ところがね、あっという間に振られてしまって。それで今度はもうありふれた幸せ

 になんか背を向けて音楽だけに生きようなんて、全く逆方向に方針を変えたりするん

 だ。それってどう思う」

 「クマさんは考え過ぎなのよ。そんなに突き詰めなくても物事はなるようになるもの

 よ」

 「ケル、ケッサラか」

 「えっ、ドリス・デイの歌」

 「いや、それはケセラセラ。そうじゃなくてサンレモ音楽祭ホセ・フェリシアーノ

 が歌った方」

 「あっ、知ってる。越路吹雪が歌ってた」

  「そうそう、越路吹雪と言えば "イカルスの星" はいいよね」

 「えー、クマさんってそんなのも聴くの。それとももしかして宝塚ファンだったりし

 て」 

 「いやあ、宝塚ファンはアグリーの母上がそうだけど」

 「ふうん、そうなんだ。アグリーどんのお父さんは警察なんでしょ」

 「うん、あのあさま山荘があと二、三日延びていたら現地に行く事になっていたみた

 い」

取り留めの無い会話を止める者は誰も居なかった。そしてクマは『何故、ナッパとは

こんな風にフランクに話せなかったのだろう』と改めて考えていた。

                 f:id:napdan325:20190628113153j:plain

緒永廣康 「ソメチメス」(sometimes)60

40.ただその四十分の為だけに(「告別演奏會顛末記」その後)(22)

 

 ヒナコさんグループでの活動を続けながらも、クマは来年二月に迫った大学受験の事

を忘れた訳ではなかった。そしてその為に相変わらず授業終了後は真っ直ぐ帰宅し、午

睡を取った後夕食を済ませて深夜三時頃まで机に向かい、翌朝七時に起きて登校すると

いった生活を続けていた。

 そのような時間の過ごし方はある程度ストイックになることが必要とされるが、クマ

は様々な誘惑に対し一旦背を向けてしまえば、再びそこへ戻るという事は極めて少な

く、またそれに苦痛を感じる事も無かった。もっともそれは=勿論年齢的には禁じられ

ているにせよ=煙草やアルコールといった常習性のある物を一切嗜んでいないから言え

る事かも知れなかったが。

 彼はまたテレビに対しても、その頃NHKで「刑事コロンボ」という非常に興味をそそ

る番組が土曜日の夜放送されており、クマの両親と姉は揃って視聴していたが、その時

間クマだけは一人で二階の自分の部屋に行き一度もそれを見た事がなかった。

 彼が唯一見るといえばコロンボの前に放送される同じNHKの「ステージ101」だけ

で、その番組の音楽監督を務める東海林修の編曲に興味があったからだったが、もう一

つ理由があり、それは大集団のヤング101の中の髪が長く瞳が輝いて見える温碧蓮と

いう女性が、あのナッパの面影に通じるところがあるような気がして、彼女の姿を見る

事も楽しみだったせいもある。その意味から言えば彼は未だナッパという存在に背を向

ける迄には至ってはいなかった事は間違いない。

 

 そんなある日、クマにセンヌキから電話が掛かった。

「オタク、夏休みどっかの講習を受けるの」

「いや、別に何も考えてなかったけど」

「だったら一緒に行かない」

「うん、でもアータは国立志望でしょ、コースが違うんじゃないかな。だいたい何処に

行こうという話」

「共通する教科はあるし。それで代ゼミはちょっとなんだから、一橋学院がいいんじゃ

ないかと思うんだけど」

代ゼミって良くないのか」

「いや、有名過ぎて大衆向けなんじゃないかと」

「そんなもんかな、まあいいけど。一応親の承諾が無いと金が出て来ないんで、それを

聞いてから返事するよ。応募の締め切りとかあるの」

「まだ充分余裕がある」

「オーケー」

結局その夏、クマはセンヌキと一緒に予備校が募集している夏期講習に通う事になっ

た。

  クマは受験する大学を私立文系に絞っていた。それは何と言っても数学が殆ど理解出

来ていない事と、国公立大学よりは受験科目が少ないからで、逆にその事は国語、英

語、社会の三教科だけで勝負する事を意味し、広く浅くなのか狭く深くなのか、どちら

が得策であるか判断に迷うところだった。とくに社会では日本史、世界史、倫社など選

択肢が別れる為、試験そのものがまるでギャンブルのように時の運に左右される可能性

は否めなかった。だが、それはクマだけに限った話ではなく、受験生全員に対し平等で

あり特に不平不満をいう筋合いではない事は言うまでもない。

 

 夏期講習行きを決定して数日後、クマが午前中で授業を終えいつも通りそそくさと教

室を出ようとした時、チャコがドタバタと走って彼を追いかけて来た。

「Long time no see、どうしの

「あの・・・」彼女は息を切らして暫く物が言えない状態だった。「あの、仁昌寺先生

が・・・亡くなったの」

それを聞いて今度はクマが言葉を詰まらせ「えっ・・・」っと短く声を発したまま、暫

く自分の足元を見つめたままであった。しかし極度の驚愕が悲しみの感情をかき消して

しまったのか、彼は妙に平然と落ち着いているかのように見えた。

チャコが続ける。

「先生は秋田県玉川温泉っていう湯治場にずっと行っていたんだって。それでしばら

くは体調も安定してたらいしいんだけど、二週間くらい前、急に具合が悪くなって救急

車で病院に運ばれて、それでそのまま意識が戻らなくて、一昨日の晩息を引き取ったん

ですって」

それを聞いてクマは暫く沈黙したが漸く口を開いた。「うん、そう、そうなんだ。そう

か、仁昌寺先生は死んでしまったんだ」クマはゆっくりと一言ずつ嚙み締めるように言

った。それはそうする事によって今聞いた話を事実として自分に納得させていたのかも

知れないが、頭の中では全く別の事を考えていた。

『それにしても今時湯治なんて前時代的な方法がガンに通用するのだろうか。そしてそ

れを選んだ仁昌寺和子という司書教諭は一体何を考えていたのだろうか』

そしてクマは唯一度きりの彼女との会話を思い出していた。それは五月の暖かな日差し

が注ぐ図書室だった。

 

「どうかしましたか」知らぬ間にクマの横には司書教諭が立っており、怪訝そうな顔

をしてそう訊ねた。

「先生」クマは今まで一度も口をきいた事のない彼女に対し、思わず自分でも予期せぬ

言葉を発した。

「先生は取り返しのつかない出来事を経験した事はありますか」

「・・・それは何度もあると思うけど。例えば歳を取ったりとか」

「いいえ、そんなのではなくて、何て言うのか、そう、言わなくてもよかった事を言っ

てしまったりとか」

「・・・今こうして会話をしているけれど、私は私が作り上げた君という虚像と話して

いると思うの。こう言えば君がどう反応するか、君の隣に作ったもう一人の君の顔色を

うかがいながら、次の言葉を探しているの。だから、どれだけ言葉を尽くしても、それ

は想像の領域のコミュニケーションでしかない。でも私達は切れば血の出る現実に生き

ている・・・言っている意味が解る」

部屋の中に、話の内容とは裏腹な司書教諭の屈託のない声が響いた。

「多分、判る、と、思います」クマは考えながら答えた。

「だったらオーケー。失恋でもしたの、人を好きになるのは理屈じゃないわ。大抵は一

瞬の気の迷いか、大いなる勘違い。まあ若いんだから元気を出しなさい。月並みな言葉

だけれど」

「先生は恋愛に何か含みでもあるんですか」クマは思わず笑顔で言った。

「そんな事はないけど、でも些細な言葉の行き違いで壊れてしまうような繋がりなら、

元々大した事が無い証拠。そんな関係なら幾らでも転がっている。それで相手が本当は

何を考えているかなんて誰にも判る筈がない。だって自分で自分の事さえ判らないんだ

から。君は完全に自分自身を把握していると思う。人は誰でも、決して日の当たらない

月の裏側みたいな部分を持って生きているって、私はそう思うけど」

クマがまだその言葉の意味を頭の中で整理している間に、彼女はもう一言付け加えた。

「まあ、でも嘘はダメね。特に直ぐバレる嘘は。今日の午後、授業は無いと言うのは最

低。取り返しのつかない出来事を経験した事って、今日君を見逃してしまった事かも知

れない」

 彼女は笑っていたしクマも仕方なく笑うしかなかった。

 

 『何故だろうか、初対面の自分に対し彼女がそんな事を言ったのは』クマがそう考

えている時、チャコはまた別の世界に浸っているクマを半ば諦め顔をしながら黙って見

ていた。

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緒永廣康 「ソメチメス」(sometimes)59

39.ただその四十分の為だけに(「告別演奏會顛末記」その後)(21)

 

 1974年9月27日。その日、世田谷区民会館で行われる文化祭まで残りあと三ヶ

月を切っていた。その舞台で「ヒナコさんグループ」に与えられる時間は未だ不明だっ

たが、演奏する予定のレパートリーの内、取敢えずムーはオリジナル二曲目も決まり、

ヒナコの一曲と合わせて取敢えずこれらは練習をすればいいだけになった。

 しかし当然その三曲では数が足りない。少なくとも三十分以上はステージに居る事に

なる筈であるから、後四、五曲は用意しなければならず、最も手っ取り早いのはアグリ

ーとクマが既に作った歌から選ぶ事であったが、それはいつでも出来る訳で、クマはヒ

ナコの顔を見る度に専らあと一曲何とかするようプレッシャーをかけ続けてきた。そし

てその日の練習でも同様、開口一番こう言った。

「ねえ、何か無いの。取敢えずさ、曲か歌詞か、どちらかがあれば後はどうにかするか

らさ」

「そうねえ、ないことは無いんだけど、ちょっとねえ、あんまりねえ」

「ちょっと何よ、いいからやってみてよ」クマに促されヒナコは自信なさげにギターを

持ち上げてボソボソ蚊の無くような声で歌い始めた。

「 ♪ 秋祭り 秋祭りのお囃子の音が・・・」彼女は最初の四小節を歌うとそこで止めて

首を横に振りながらクマの顔を覗き込むように見た。

「いいじゃない、ねえ」クマはアグリーに同意を求めた。

「全然オーケーだよ。季節感も秋でピッタしだし」当然アグリーは自分が与えられた役

割を果たす。

 それは極ありふれたフォーク調の曲で、しかもキーは定番のAm。これでもかと言う

程マイナーな歌だったが、散々せっついて出させたものであり今更貶す訳にも、まして

や別の曲を要求する事など出来る筈も無かった。

 一応最後まで通して歌を聴くと、クマはいつも携帯している五線譜を取り出し大雑把

な譜割をしてコードをすらすらと書き込みながら、ヒナコに確認した。

「タイトルは ” 秋祭り " でいいんだよね。そして歌詞は」

クマがそう言うとヒナコはスヌーピーの便箋を取り出した。

 

     秋祭り 秋祭りの人混みの中で

     あなたとはぐれて一人の私

     浴衣姿 裸電球

     赤い風船が手を離れ

     暗い夜空に消えてった

     

     秋祭り 秋祭りのお囃子の音が

     私の寂しい心に染みる

     金魚すくいに風船釣りと

     いつかあなたの事も忘れて

     一人はしゃいで夜は更ける

     

     秋祭り 秋祭りの終わったその後で

     気がついてみたら一人の私

     綿あめの甘い香りを残し

     散らかった神社の境内を

     秋風も寂しく吹き抜けた

 

「最高じゃん」アグリーが大袈裟に叫ぶと、ヒナコは照れ隠しなのか彼の背中を平手で

叩いた。

 一方「悪くない」そう呟いたクマの灰色の脳細胞にまたしても灯りが点灯した。

『そうだ、これはイントロと間奏で、CSNYかガロのような癖のあるリードギターを入

れれば、ちょっとはハイセンスになるのではないか』

 その為にはAmよりはDmの方がより自分としては弾きやすい、しかしキーは五度高く

なる。早速クマは自分がDmで演奏し、ヒナコの声のチェックをした。

 その結果一番音程が高くなる部分で時折声が裏返りそうになるものの、これは歌い込

めば何とか解消されそうだと彼は思った。

 クマは相変わらず、事音楽にかけては自分本位で冷酷な迄非情であり尚且つ容赦が無

かった。

「何かクマさんて高い声ばっかり求めてない」ヒナコは半ば呆れたように言ったが、ク

マは『それはもしかしたらその言葉は、暗に自分が未だあのアグネス・チャンが歌って

いるようなナッパの甲高い声の呪縛から解き放たれていない事をさしているのか』と考

えた。しかし彼はその事を声には出して言わなかった。

 

 その日もクマは家に帰るとヒナコの新曲に罹りっきりになった。そして何度か繰り返

しギターを弾いているとある事実を発見した。

『このコード進行は何処かで聞いた事があるぞ』

 試しにその思いついた歌を重ねて歌ってみると、彼の仮説は確信に変わった。それは

間違いなくコッキーポップというラジオ番組で流れている、ウイッシュという女性デュ

オが歌う「六月の子守歌」そのものであったのだ。

 クマは一瞬、人の秘密を暴き、隠れていた本性を垣間見たような、密かな快感に近い

感覚に陥ったが直ぐに思い返した。

『これはコード進行が同じだけでメロディーは全く異なるのであるから、何ら問題はな

い』

 それは全くその通りであり、少なくともクマが神とも仰ぐポール・サイモンの名曲

サウンド・オブ・サイレンス」を盗用し、「夜明けのスキャット」などという駄作を

恥ずかし気もなく世に出して印税を稼いだであろう『いずみたく』という名の作曲家よ

りはずっとましだ。そう考えたクマは折角の自分の大発見を封印する事にした。

 

 「秋祭り」のアレンジにはそれ程手間はかからなかった。基本的には典型的なスリー

フィンガーを使い、後半からは少しずつストロークを入れていってエンディングを盛り

上げるといういつものパターンだ。

『代り映えしないかな、でもそれ以外に何か方法はあるだろうか。精々6弦をEからD

にドロップする位か』

 いつしかクマの指は自然にCSNYの「Find The Cost of Freedom」で演奏されるニー

ル・ヤングの泥臭いギターフレーズをつま弾いていた。

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